ペンタゴン
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陸軍省代表として出席したユージン・レイボルド(英語版)准将に対し、ウッドラムは、さらなる仮設ビルを建設するのではなく、「根本的な解決策」を取るべきだと述べ、レイボルドは5日以内に解決策をまとめて報告すると述べた。陸軍省は、建設部門を統括するブレホン・B・サマーヴェル(英語版)大将に計画を立てさせた[20]
計画1945年のペンタゴン周辺の地図。リンカーン記念堂(Lincoln Memorial)の東側にある櫛形の建物が、ペンタゴンに移転する前に陸軍省本部が置かれていた海軍本部ビルである。

政府関係者たちは、陸軍省のための新たな建物をポトマック川の対岸のバージニア州アーリントン郡に建設することで合意した。建物の正式名称は「第1連邦政府ビル」(Federal Office Building No 1)とされた。その条件は、4階建て以下であることと、戦争遂行に必要な資源の確保のために鉄鋼の使用量をできるだけ抑えることだった。階数の制限のため、この建物は垂直方向に伸びる高い建物ではなく、水平方向に広がる建物となり、広大な敷地が必要となった。建設地の後補として、アーリントン国立墓地に隣接する農務省アーリントン試験農場(英語版)や、フーヴァー飛行場(英語版)跡地などが挙げられ[21]、その中からアーリントン試験農場が選ばれた。

7月17日の午後、サマーヴェルは、建設師団設計・技術分隊司令官のヒュー・ジョン・ケイシーに対し、新しい陸軍省本庁舎の設計を次の月曜日の朝までに行うように命じた。ケイシーはアメリカ建築家協会の元会長ジョージ・バーグストローム(英語版)とともに、その週末で設計を完了させた。アーリントン試験農場の土地の形状に合わせて、建物は変則的な五角形の外形で設計された[22]。しかし、ルーズベルト大統領は、アーリントン国立墓地からワシントンD.C.が見えなくなることを懸念して、建設地をアーリントン国立墓地から離れたフーヴァー飛行場跡地に変更させた[23]。土地の形状の制約はなくなったものの、大幅な設計変更にはまたコストがかかることと、ルーズベルトが五角形の形状を気に入っていたことから、外形は五角形のままとされた。不規則な五角形から正五角形に変更され、かつての星形要塞に似たものになった[24]

1941年7月28日、連邦議会において、陸軍省全体を収容する新庁舎の建設資金が承認された[25]。9月2日、ルーズベルト大統領は、フーヴァー飛行場跡地を建設地とすることを正式に承認した[26]。議会による承認を受ける前に、サマーヴェルは建設業者を選定し、アーリントンのワシントン・ナショナル空港、ワシントンD.C.のジェファーソン記念館などを建設したフィラデルフィアのジョン・マクシャイン(英語版)社を主担当とし、バージニア州のワイズ・コントラクティング社とドイル&ラッセル社を副担当とした[27]。フーヴァー飛行場跡地などの国有地のほかに116万平方メートルの土地が必要となり、220万ドル(2020年の物価換算で3030万ドル)で買収された[28]。121万平方メートルはアーリントン国立墓地やフォート・マイヤー(英語版)に移管され、113万平方メートルがペンタゴン建設のために使われた[28]
建設ペンタゴンと他の巨大な物体との比較
.mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  ペンタゴン: 431 m   客船「クイーン・メリー2」: 345 m   空母「エンタープライズ」: 342 m   飛行船「ヒンデンブルク」: 245 m   戦艦「大和」: 263 m   エンパイアステートビル: 443 m   タンカー「ノック・ネヴィス」: 458 m   Apple Park: 464 m

1941年9月11日、総額3110万ドル(2020年の物価換算で4億2800万ドル)でマクシャイン社などと建設の契約を締結し、同日に起工式が行なわれた[29]

サマーヴェルは設計条件の中で、床の耐荷重を150psi(1,000kPa)とした。これは、第二次世界大戦終結後にこの建物が記録保管施設として使われることを想定したものだった[26]。鉄鋼不足のため、鉄鋼の使用量は最低限に抑えられ、鉄筋コンクリート構造で建設された。ポトマック川で68万トンの砂を浚渫し、ペンタゴンのすぐ近くまで水路を引いて砂を運んだ[30]。また、鉄鋼の使用量を減らすためにエレベーターは設置されず、その代わりにコンクリート製のスロープが設けられた[31][32]。ファサードにはインディアナ・ライムストーン(英語版)が使用された[33]

建築・構造設計は建設と同時に行われた。1941年10月初旬に最初の設計書が提出され、1942年6月1日までにほとんどの設計が完了した。設計よりも建設の方が先に進んでしまうこともあり、設計で指定されたものと異なる材料が使われたこともあった。1941年12月7日の真珠湾攻撃によりアメリカが参戦すると、ペンタゴンの建設を早めるよう圧力がかけられた。サマーヴェルは、9万3千平方メートルを1943年4月1日までに使用できるようにすることを要求した[34]。バーグストロームは、ペンタゴンのプロジェクトとは無関係の事案における不適切な行為で提訴されたため[35]、ペンタゴンの設計の仕事を降りた。


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