ペンシルベニア州
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ゲティスバーグ南北戦争の激戦地であり、今も多数の大砲が保存されている古戦場跡として有名である。ブリンマーはフィラデルフィア郊外の閑静な住宅街として全米でもよく知られる。ポコノ山脈やデラウェア・ウォーター峡谷は保養地として有名である。

家庭で話される言語(ペンシルベニア州) 2010

英語  90.15%
スペイン語  4.09%

人種構成(ペンシルベニア州) 2010

白人  79.5%
黒人  10.8%
ヒスパニック  5.7%
アジア系  2.7%
インディアン  0.2%
混血  1.9%

歴史主要記事:ペンシルベニア州の歴史ペンシルベニア植民地」も参照

ペンシルベニア州となった地域にヨーロッパ人が入植する以前、この地域にはデラウェア族サスケハノック族、イロコイ族、エリー族、ショーニー族などのインディアンが住んでいた[1]。オランダとイギリスがデラウェア川の両岸をアメリカにおけるそれぞれの植民地の一部と主張していた[2][3][4]。オランダが最初に領有し、ペンシルベニアの歴史に大きく影響した[5]

1631年6月3日、オランダは現在のデラウェア州ルイスの地にツヴァーネンデール植民地を造り、デルマーバ半島への入植を始めた[6]。1638年、スウェーデンが現在のウィルミントンの地に造ったフォートクリスチーナを中心とするニュースウェーデン植民地を設立することで、領有問題が加熱された。ニュースウェーデンはデラウェア川下流域(現在のデラウェア州、ニュージャージー州、ペンシルベニア州に跨る)の領有を主張し支配したが、植民者の数は少なかった[7][8]インディアンと結んだペンの条約、エドワード・ヒックス

1664年3月12日、イングランド王チャールズ2世ヨーク公ジェームズに、プリマスバージニア会社が当初持っていた勅許地全てに他の土地を含めた土地の勅許を与えた。この勅許は、現在のペンシルベニア州の一部を含むオランダ領ニューネーデルラントの主張する領有権と競合した[9]

1664年6月24日、ヨーク公は現在のニュージャージー州を含む広大な領土の一部を、ジョン・バークレーとジョージ・カートレットに売却し、領主植民地とした。その土地はこのときもイギリス領だったが、デラウェア川の西岸にあるニューネーデルラントの一部と重複した。同年8月29日にイギリスによるニューネーデルラント征服が始まり、ニューヨーク港に浮かぶイギリス艦船の大砲を面前にして、ニューアムステルダムが降伏を強いられた[10][11]。この征服が継続し、同年10月には現在のデラウェア州ニューキャッスルにあったカシミア砦を占領することで、完成した。ジョン・ディキンソン

1667年7月21日、イギリス、フランスおよびオランダの間に結ばれたブレダの和約により、イギリスの征服が確認されたが[12][13]、一時的な反動も起きた。

1672年9月12日、第三次英蘭戦争の一部として、オランダはニューヨーク植民地とニューアムステルダムを再征服し、現在のデラウェア州とペンシルベニア州に当初の3郡となる郡政府を設立した。後にペンシルベニアに移管された部分がアップランドだった[14]。1674年2月9日、第三次英蘭戦争を終わらせるウェストミンスター条約が結ばれ、政治的な状況を「戦前に元あった状態」に戻された。イギリスはオランダの郡をオランダの名称で保持した[15]。同年6月11日までに、ニューヨーク植民地がアップランドを含め外郭の植民地に対する支配を再度主張したが、その名称は1674年11月11日までにイギリス名に変えられていった[16]。同年11月12日、アップランドが分離し、現在のペンシルベニア州とデラウェア州の州境が概略生みだされた[17]

1681年2月28日、チャールズ2世がウィリアム・ペンの父ウィリアム・ペン提督から借りていた16,000ポンド(2008年のインフレ換算で210万ポンド[18])の借金のかたに[19]ウィリアム・ペンに土地の勅許を与えた[20]


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