ペンザンス
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それは小さく、イエスの母マリアの絵が中にあることを記憶している」[13]とある。教会は緑色岩で造られており、およそ30フィートの長さ、15フィートの幅があり、元の位置に破片のみが残っている。1800年頃に教会は魚の貯蔵庫になった。大アントニオス教会のものであると思われるラッジバン花崗岩でできた彫像は1830年頃に撤去され、豚小屋の壁として使われたが、1850年に「石の顔と荒れた手を気に入った風変わりな人間により破壊され、記念品として持ち去られる」という形でさらに破壊を受けた。破壊された彫像の残り(聖ラフィディと呼ばれる)は、ある石工により「一輪車に積み込まれ、教会付属の庭までごろごろと運び込まれる」形でセント・メアリーズ教会の庭に持ち込まれた[14]。この彫像の残骸はセント・メアリーズ教会の庭に残されており、歴史家のチャールズ・トーマス教授によると12世紀初期のものとされる。大アントニオス教会への寄贈に関しては、あったとしても伝説に完全に基づいており信頼できないであろうが、初期の文献はない。聖ガブリエルおよび聖ラファエルの教会において礼拝式を行う許可は1429年に出ているが、それ以外については1850年に聖ラフィディに関して出てくる石工以外のことは知られていない。この教会に隣接しているのは、1933年に名づけられた大アントニオス庭園で、この教会の場所から持ち込まれたとされるアーチが置かれている[5]

港の上のスカイラインを占めているのは、現在の聖マリア教会である。聖マリア教会は1548年の文献に登場しており、そこではアルバートン荘園の領主であったヘンリー・タイズ卿 (Sir Henry Tyes) によって設立され、司教に4ポンドの俸給を支給したとある[15]。1379年に遡る、ブランティンガム司教 (Bishop Brantyngham) が「ペンサンドの祝福されたマリアの教会」(the chapel of Blessed Mary of Pensande) で礼拝式を行う許可をしたという文献もある[16]。この時代にはおそらく分会堂(英語版)として使用されており、マドロンにある教区教会の礼拝への出席に影響を与える日曜礼拝は行われていなかったものと思われる[5]。この時期の居住のさらなる根拠としては、町のセント・クレア地区があり、ここには聖クレア教会 (St.ClareまたはCleer) があった。初期の文献としては1584年の「ペンサンスとマダーンの間のハイ・ロードの下にある教会が存在する」(a certain chapel situate below the high road between Pensaunce and Madderne) というものがある[17]。19世紀初期にこの教会だとされる建物の基礎が発見され、建物の形が分かるだけ発掘された[18]。この教会に関しては礼拝式の許可をたどることができない[5]。聖クレアの名前は町のセント・クレア通りに残っており、この通りはペンザンスとマドロンを結ぶ道路の一部である。またセント・クレアクリケット場が丘の上にある。
中世の経済

市場は毎週一定の日に開かれており、また規模の大きな市場も毎年固定の日に開催されていた。荘園領主は、こうした市場の開催に当たって勅許を求める必要があった。毎週水曜日に市場を開く権利は、エドワード3世によって1332年4月25日にタイズ卿の姉妹でウォリン・ド・リール (Warin de Lisle) の未亡人である、アリス・ド・リール (Alice de Lisle) に対して認められた。8月1日の聖ピーター・アド・ビンキュラ (St Peter ad Vincula) の祭りに際して7日間続く市場と、また8月24日の聖バーソロミュー (St Bartholomew) の祭りに際して7日間続く市場があり、後者がペンザンスで開催されていた。1404年4月8日にヘンリー4世によって毎週水曜日の市場と、さらに3つの2日間の市場開催が認められたため、その重要性からこの植民地は成長していった。この2日間の市場開催は、無原罪の御宿りの祭り(12月8日)、聖ピーター・イン・キャシードラ (St Peter in Cathedra) の祭り(2月22日)、聖母マリア生誕祭(9月8日)である[5]

認可の勅許状がないため、ペンザンスの埠頭がいつ建設されたのかは不明である。しかし、1322年にアルバートン荘園に対しての調査では、1隻あたり2シリングを払う漁船が8隻おり、またマウゼルに12シリングを払うものが特定できない数いるとある。また荘園外の漁師が小屋を借りた場合の8シリングの支払いも定められていた。1327年の2回目の調査では、ペンザンスでは13隻に増加しており、マウゼルでは16隻が記録されていたが、両者とも1シリングだけの支払いとなっていた。小屋の借り賃は8/6ペンスで、また17軒の借家人が6ペンスずつ払っていた。どちらの調査でも、ペンザンスからは29人の、マウゼルからは40人の選出議員がいたと記している。選出議員は、個人的な勤務ではなく現金で借り賃を払っており、またペンザンスとマウゼルは町とされていたことを示す[19]。西コーンウォールの居住地の比較は漁船の数に基づいて決められる毎年の支払いで比較でき、コーンウォール公領の1337年の記録では、ポーティア(Porthia、セント・アイブス)は6ポンド、モースホール(Mosehole、マウスホール)は5ポンド、マーカジオン(Marcasion、マラザイアン)は3ポンド、ペンザンス(Pensanns)は12シリング、ロンデスエンデ(Londeseynde、ランズ・エンド)は10シリング、ニューリン(Nywelyn)は10シリング、ポートミンスター(Portmynster)は2シリングとなっている[5]。1425年、1432年、1440年には、ペンザンスの船が北部スペインサンティアゴ・デ・コンポステーラの神殿へ巡礼者を運ぶ許可を得ている[20]

中世およびその後の時期、ペンザンスは「トルコ海賊」(実際にはバーバリー海賊)にしばしば襲われた[21]。1614年にペンザンスが勅許自由都市の地位を獲得する以前の時期は、この村と周辺地域はアルバートン荘園の支配下にあり続け、荘園の課税体系の下にあった。
近世初期
テューダー朝期

1578年の夏、ペンザンスは腺ペスト (Bubonic plague) の流行に見舞われた。ペンザンスにおけるすべての出生・死没・結婚が記録されているマドロンの埋葬記録によれば、前年の死者が12人だったのに対して1578年の死者は155人と、大幅な増加を示している。これは、当時の村の人口のおよそ10パーセントであると推定されている。ペストは1647年にも再来し、埋葬記録によれば1年の死者数は22人から217人に増加している[22]

コーンウォールの最西端に位置しているという条件から、ペンザンスおよびその周辺の村は、何度も外国の艦隊に略奪を受けてきた。1588年のアルマダの海戦から数年経った1595年7月23日[23]、カルロス・デ・アメスキータ(スペイン語版)率いるスペイン軍が英仏海峡のパトロールを行い、コーンウォールに兵士を揚陸した。アメスキータの軍勢は物資を略奪し、ペンザンスおよび周辺の村を襲って焼き払い、ミサを執り行った後、イングランド軍と正面から対決する前に出帆した(コーンウォールの戦い(英語版))[24]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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