ペロポネソス戦争
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ペルシア帝国のギリシャ地方支配に対抗したスパルタに対して、ペルシャ帝国は敵対するアテナイやテーバイ、後にはコリントスなどのスパルタと敵対するポリスに資金支援を行い、諸ポリスが合従連衡を繰り返してスパルタに対抗した(例えばコリントス戦争大王の和約)。紀元前379年にようやくスパルタがギリシャとエーゲ海における覇権を握ったが、海上交易のもたらす富が市民の間に貧富の差を生み、主に自作農から構成された兵役を担う自由市民が700名程度にまで減少したため、質実剛健を旨とするリュクルゴス制度(古代ギリシア語: Λυκο?ργο?, 英語: Lycurgus)は打撃を受けた。
ボイオティア戦争詳細は「ボイオティア戦争(英語版)」を参照

紀元前378年、アテナイがデロス同盟に代わる第二次海上同盟(英語版)を再び結成した。ギリシア世界がボイオティア戦争(英語版)で慢性的な戦争状態に陥り、徐々に衰退する一方で、アテナイは紀元前375年のナクソス沖の海戦(英語版)でペルシア軍を打ち破り、海上の覇権を取り戻した。紀元前371年、スパルタ軍はレウクトラの戦いエパメイノンダスに率いられたテーバイ軍に敗北し、ギリシアの覇権を失った。一時的に覇権を握ったテーバイも、紀元前362年マンティネイアの戦いでエパメイノンダスが戦死すると覇権を失った。
マケドニアの台頭詳細は「マケドニアの台頭(英語版)」を参照

紀元前357年にテーバイを中心とする同盟市と第二次海上同盟を擁するアテナイの間で同盟市戦争(英語版)が勃発し、紀元前356年にはテーバイを中心とするアンフィクテュオニア評議会(隣保同盟)とフォキスを中心とするアテナイ・スパルタ連合軍の間で第三次神聖戦争(英語版)が起こった。紀元前355年に同盟市戦争は同盟市の勝利におわり、第二次海上同盟は崩壊。紀元前346年に第三次神聖戦争も隣保同盟が勝利し、隣保同盟側に参戦したマケドニア王国のフィリッポス2世は影響力を強めた。紀元前347年プラトンが死去し、アリストテレスが故郷のマケドニアに帰国してアレクサンドロス3世の家庭教師になったこともこの後の歴史に大きな影響を与えた。紀元前338年カイロネイアの戦いマケドニア王国にアテナイ・テーバイ連合軍は敗北し、マケドニアの覇権が成立した。こうしてギリシア世界はマケドニアの支配下に置かれることになったのである(スパルタだけはマケドニア主導のヘラス同盟(コリント同盟)に加わらず、後にアギス3世が反マケドニアの兵を起こすも、紀元前331年メガロポリスの戦いで敗れた)。紀元前336年にフィリッポス2世が暗殺されると一時的にヘラス同盟は混乱に陥ったが、アレクサンドロスが権力を掌握。紀元前334年にアレクサンドロスは、ペルシア戦争以来のギリシア世界の宿敵ペルシアを倒すためにマケドニア軍を率いて東征に乗り出した(アレキサンダーの東征(英語版))。
年表

紀元前433年シュボタの海戦。コリントスが勝利。

紀元前432年:ペロポネソス同盟会議において、同盟諸市へのアテナイの侵略に対し和約違反を非難、開戦を決議。

紀元前431年:ペロポネソス同盟軍による第一次アッティカ侵攻(ポティダイアの戦い)。アテナイ軍によるメガラ侵攻。自治権を要求するアテナイ傘下の都市アイギナに対しアテナイが軍を送り占領、全市民を追放。

紀元前430年-紀元前429年:第二次アッティカ侵攻(en:Battle of Spartolos)。

紀元前429年:リオンの海戦ナウパクトスの海戦。ともにアテナイが倍以上のペロポネソス艦隊を破る。

紀元前428年-紀元前427年:ペロポネソス同盟軍による第三次アッティカ侵攻(ミュティレネの反乱)。レスボス島の諸市がアテナイから離反。短期間で鎮圧するが、その後も度々離反。

紀元前427年ミュティレネの反乱鎮圧。

紀元前426年-紀元前424年:アテナイ軍による第一次シケリア遠征。タナグラの戦い (紀元前426年)、en:Aetolian campaign、en:Battle of Olpae、en:Battle of Idomene。

紀元前425年:ペロポネソス同盟軍とアテナイ軍によるピュロスの戦い(英語版)およびスファクテリアの戦い(英語版)。アテナイ軍の勝利。

紀元前424年:アテナイ軍がキュテラ島を占領。ブラシダスによるトラキア遠征。アテナイ軍がメガラへ侵攻(メガラの戦い(英語版))。アテナイ軍とボイオティア軍によるペロポネソス戦争最大の会戦デリオンの戦い(英語版)。ボイオティア軍の勝利。

紀元前423年:1年間を期限とした和平条約の締結。

紀元前422年アンフィポリスの戦い。ペロポネソス同盟軍の勝利。両軍の指揮官クレオン、ブラシダスともに戦死。

紀元前421年:アテナイとペロポネソス同盟による50年間を期限とした同盟条約の締結(ニーキアスの和平)。

紀元前420年アルゴス、アテナイ、エリスマンティネイアによる反スパルタ四ヶ国同盟の締結。

紀元前418年:スパルタ軍とアルゴス軍によるマンティネイアの戦い。スパルタ軍の勝利。

紀元前417年:スパルタ軍によるアルゴス侵攻。

紀元前416年:アテナイ軍によるメロス攻略(メロス包囲戦)。

紀元前415年:アテナイ軍による第二次シケリア遠征

紀元前414年:シュラクサイの要請を受けたスパルタが、シケリアにペロポネソス同盟軍を派遣。

紀元前413年:第四次アッティカ侵攻。シケリアに派遣したアテナイ軍が降伏。ペルシアとペロポネソス同盟の同盟締結。

紀元前412年:アテナイ市民は最後の準備資金を使って艦隊を編成。クラゾメナイがアテナイに反乱を起こす。

紀元前411年:ペロポネソス同盟艦隊とアテナイ艦隊によるシュメの海戦、キュノスセマの戦い(英語版)。前者は引き分け、後者はアテナイ軍の勝利。

紀元前410年:アビュドスの戦い(英語版)。ペロポネソス同盟艦隊とアテナイ艦隊によるキュジコスの海戦(英語版)。アテナイ軍の勝利。ペロポネソス同盟艦隊が壊滅状態に陥る。

紀元前407年:ペルシアの資金援助によりペロポネソス同盟艦隊が再建される。

紀元前406年:ペロポネソス同盟艦隊とアテナイ艦隊によるノティオンの海戦(英語版)。ペロポネソス同盟軍の勝利。

紀元前406年:ペロポネソス同盟艦隊とアテナイ艦隊によるアルギヌサイの海戦(英語版)。アテナイ軍の勝利。

紀元前405年:ペロポネソス同盟艦隊とアテナイ艦隊によるアイゴスポタモイの海戦。ペロポネソス同盟軍の勝利。アテナイ艦隊が壊滅する。アテナイ市の包囲。

紀元前404年:アテナイが降伏し、ペロポネソス戦争が終結する。

トゥキュディデスアンフィポリスをめぐる戦いに指揮官として参加したが敗れ、責任を問われて20年の追放刑に処せられた。このためスパルタの支配地にも逗留したことがあり、双方を客観的に観察することができた。

なお、哲学者ソクラテスも一兵卒としてこの戦争に参加し、デリオンの戦いでは味方が総崩れになる中最後まで奮戦した。彼の奮戦の様子を弟子のプラトンは著作において述べている。だが、戦争への参加にもかかわらず、アルキビアデスやクリティアスを始めとする彼の弟子や関係者が戦争とその後の混乱の原因となったことで民衆の反発を招き、後の刑死の一因となった。

紀元前362年マンティネイアの戦い以降の歴史は、ディオドロスの『歴史叢書(英語版)』や、アッリアノスの『アレクサンドロス東征記』(古希: ?λεξ?νδρου ?ν?βασι?)等の記録から知ることが出来る。


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