ペロポネソス半島
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1205年には十字軍の南フランス騎士が半島を征服してアカイア公国を建国し、その一方でヴェネツィア人はピロス、メソニ、コロニなど半島沿岸の港湾都市を占領し拠点として支配した。東ローマ帝国は1262年にアカイア公国からスパルタ近郊のミストラスモネンヴァシアマニなど半島南東部を獲得し、ミストラスを中心に半島の再征服に乗り出した。14世紀にはパレオロゴス王朝の皇子が専制公として統治する行政体制、いわゆるモレアス専制公領が発足し、政治・文化的に著しい発展をした。15世紀にはアカイア公国を滅ぼして最盛期を迎えたモレアス専制公領は、1460年オスマン帝国による侵攻と併合で終焉を迎えた。ヴェネツィアは半島の一部1540年までと、1699年から1718年にかけて支配したが、オスマン帝国による支配はマニ半島における散発的な反乱を除き、揺るがなかった。
近代・現代[ソースを編集]

1821年3月、ギリシャ人たちは各地でオスマン帝国に対して蜂起し、ギリシャ独立戦争が始まった。ペロポネソスでは半島東北部のカラヴリタ(英語版)や半島南部のカラマタなどで反乱の口火が切られ、パトラの府主教が「自由か、さもなくば死か」と訴えた3月25日は今日ギリシャの独立記念日とされている。ペロポネソス半島での反乱は独立戦争の主力となり、半島はさまざまな戦闘や政治の主要な舞台となった。独立戦争における転換点となったのは半島西岸のピュロス沖で戦われたナヴァリノの海戦である。半島東北部に位置するナフプリオには暫定政府が置かれ、ギリシャ王国成立後の1834年にアテネに移るまで「独立ギリシャ最初の首都」であった。

19世紀に入り、農業に基盤をおき経済的に困窮した人々はアテネなどの都市部、またはアメリカ合衆国オーストラリアなどに移住した。第二次世界大戦と戦後に発生した内戦はペロポネソス半島に大きな被害を与えた。戦時中のゲリラを基にするマルキストと、それに対する政府側の間で残虐な争いが生じた。ギリシャがEUに加盟し、半島内の旅行が解禁された1981年以降には状況は改善されたが、現在でもギリシャ国内における最貧困地域である。政治的にはギリシャ内における最も伝統主義的、保守的な地域であり、右派新民主主義党の基盤となっている。
行政区画[ソースを編集]ペロポネソス半島

現在のギリシャ共和国の行政区分において、広域自治体(ペリフェリア、「州」とも訳される)としてのペロポネソス地方は、半島の多くを占めるものの地理的な「ペロポネソス(半島)」とは一致しない。西北部は西ギリシャ地方に属しており、また東北部のトリジナ(古称: トロイゼーン)付近はアッティカ地方に属する。

行政上のペロポネソス地方に属するのは以下の県である。

アルカディア

アルゴリス

コリンティア

ラコニア

メシニア

次の2つの県は西ギリシャ地方に属する。

アカイア

イリア

遺跡など[ソースを編集]

ペロポネソス半島には青銅器時代、中世における遺跡が数多く存在する。下にあげるのはその一部である。

エピダウロス (古代の宗教施設、医療の神にちなむ)

オリンピア (オリンピック発祥の地、世界遺産)

メシーニ (古代の都市)

ミストラス (中世におけるペロポネソスの政治、文化の中心地、世界遺産)

モネンヴァシア (中世期の城塞都市)

ミケーネ (エーゲ海文明に属する城塞都市)

テゲア (古代の宗教施設)

ティリンス (古代の植民都市)

外部リンク[ソースを編集]

自治体の公式サイト

ΠΕΛΟΠΟΝΝΗΣΟΣ 地方紙(ギリシャ語)

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