ペレ
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

1956-1971[2] ブラジル92 (77[2])

獲得メダル

男子サッカー
 ブラジル
FIFAワールドカップ
1958 スウェーデン
1962 チリ
1970 メキシコ
コパ・アメリカ
1959 アルゼンチン


1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj
ペレのサイン

ペレ(Pele[注 1])こと、エドソン・アランテス・ド・ナシメント(Edson Arantes do Nascimento[注 2]1940年10月23日 - 2022年12月29日)は、ブラジルサッカー選手アフリカ系ブラジル人

サッカーブラジル代表のエースとして3度のFIFAワールドカップ優勝(2022年時点で唯一の記録でもある[3])。クラブではサントスFCで活躍し、インターコンチネンタルカップで欧州王者を破り、2度のクラブ世界一を経験。15歳でデビューしてから1977年に引退するまで、実働22年間で通算1363試合に出場し1281得点を記録した[4]。このような実績から「サッカーの王様」(英語: The King of football、ポルトガル語: O Rei do Futebol)[4]と呼ばれており、史上最高のサッカー選手、あるいはスポーツ史上最も偉大な選手と評されている[5][6][7][8][9][10]
生い立ち
誕生と家族ペレが生まれたトレス・コラソンエスの街並み。

1940年10月23日、ブラジル南東部のミナスジェライス州トレス・コラソンエスに生まれる。出生と同じ時期に町に電気が敷設されたことから、「発明王」と呼ばれたトーマス・エジソンにちなんで「エジソン (Edson)」と名付けられた[11]。しかしペレの出生証明書には「Edison」と誤表記されており、現在も訂正されていない[11]

父親のジョアン・ラモス・ド・ナシメント(通称ドンジーニョ(英語版))はサッカー選手でポジションはセンターフォワードを務めていた[12]。180cm以上ある長身を生かし1試合にヘディングだけで5得点を決めたこともあるヘディングの名手であり[12][13]、ミナスジェライス州の州都ベロオリゾンテを本拠地とする強豪クラブのアトレチコ・ミネイロに所属していたこともあったが[14]、膝を痛めて退団した[14][15]。その後は小規模なクラブに所属し低い給与でプレーするなど、サッカー選手としての成功とは無縁の人生だった[12][注 3]

ペレはサッカー選手としてのドンジーニョについて「ハンサムですばらしい体の持ち主だった。柔軟な体、たくましい脚、力強さを内に秘めた、サッカー選手としては完璧な肉体を持っていた」と述べ[18]、父親としては「短気な母のドナ・セレステとは対照的に、冷静でおとなしく、言葉を口にする前に注意深く考え、言ったことに対しては絶対に責任を取る、というタイプの人間だった。私にとっては、素晴らしい父親であった」と述べている[18]
幼少期

1944年に父親がサンパウロ州バウルのクラブへ移籍したことを契機に家族でバウルへ引越した[14]。しかし、父は選手としてプレーを続けたが後に膝の故障が基で現役を引退した[19]。これにより収入が途絶え生活に困窮したが、ペレはドンジーニョの再就職先が見つかるまでの間、靴磨きの仕事で家計を助けていた[19]。母親は厳格な人物でペレに対し経済的に不安定なサッカー選手ではなく高い教育を受け真っ当な職業に就くように厳しく躾けていた[19]

ペレは当初は飛行機の操縦士になることを夢見ていたが[20][21]、ある日友人と病院の近くでサッカーをしていた時に仲間の一人が死体置き場と思われる地下室を見下ろせる天窓を見つけ、中を覗き込んでいたところグライダーで墜落死した飛行士の解剖が行れていた[22]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:345 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef