1940年10月23日、ブラジル南東部のミナスジェライス州トレス・コラソンエスに生まれる。出生と同じ時期に町に電気が敷設されたことから、「発明王」と呼ばれたトーマス・エジソンにちなんで「エジソン (Edson)」と名付けられた[11]。しかしペレの出生証明書には「Edison」と誤表記されており、現在も訂正されていない[11]。
父親のジョアン・ラモス・ド・ナシメント(通称ドンジーニョ(英語版))はサッカー選手でポジションはセンターフォワードを務めていた[12]。180cm以上ある長身を生かし1試合にヘディングだけで5得点を決めたこともあるヘディングの名手であり[12][13]、ミナスジェライス州の州都ベロオリゾンテを本拠地とする強豪クラブのアトレチコ・ミネイロに所属していたこともあったが[14]、膝を痛めて退団した[14][15]。その後は小規模なクラブに所属し低い給与でプレーするなど、サッカー選手としての成功とは無縁の人生だった[12][注 3]。
ペレはサッカー選手としてのドンジーニョについて「ハンサムですばらしい体の持ち主だった。柔軟な体、たくましい脚、力強さを内に秘めた、サッカー選手としては完璧な肉体を持っていた」と述べ[18]、父親としては「短気な母のドナ・セレステとは対照的に、冷静でおとなしく、言葉を口にする前に注意深く考え、言ったことに対しては絶対に責任を取る、というタイプの人間だった。私にとっては、素晴らしい父親であった」と述べている[18]。 1944年に父親がサンパウロ州のバウルのクラブへ移籍したことを契機に家族でバウルへ引越した[14]。しかし、父は選手としてプレーを続けたが後に膝の故障が基で現役を引退した[19]。これにより収入が途絶え生活に困窮したが、ペレはドンジーニョの再就職先が見つかるまでの間、靴磨きの仕事で家計を助けていた[19]。母親は厳格な人物でペレに対し経済的に不安定なサッカー選手ではなく高い教育を受け真っ当な職業に就くように厳しく躾けていた[19]。 ペレは当初は飛行機の操縦士になることを夢見ていたが[20][21]、ある日友人と病院の近くでサッカーをしていた時に仲間の一人が死体置き場と思われる地下室を見下ろせる天窓を見つけ、中を覗き込んでいたところグライダーで墜落死した飛行士の解剖が行れていた[22]。そこで医者が飛行士の腕を持ち上げたりよじったりしていると突然死体が口から血を噴き出し[22]、この光景を見て身動きが取れなくなって吐き気を催すほど大きなショックを受けたペレは[22]、このことが理由で飛行士になる夢を完全に捨てた[22]。やがて父と同じサッカー選手を志すようになり、母の目を盗んで父からサッカーに必要な技術や心構えを学んでいった[23]。 「ペレ」の愛称は父親の所属していたサッカークラブ、ヴァスコ・デ・サンロレンソのGKの「ビレ (Bile) 」のファンであったことに由来している[24]。当時のペレは幼かったことや、ミナス・ジェライス訛りもあって「B」の発音が出来ず「P」と発音していた。いつしかクラスメイトから自身も「Pele」と呼ばれるようになったが、本人は少年時代はこの呼び名を好んでおらず、「エジソン」と呼ばれることを望んでいた。そのため、時にはペレと呼んだ友人を殴り2日間の停学処分を受けたこともあった[24]。また、ペレの愛称が定着するまでは父親の愛称である「ドンジーニョの息子」[25]、家族からは「ジッコ」と呼ばれていた[13][24][26]。 1950年、ペレが9歳の時に地元ブラジルで1950 FIFAワールドカップが開催された。同大会でブラジルは優勝候補の本命と目され[27]、1次リーグのスイス戦を引き分けた以外は無敗で勝ち上がり、最終戦のウルグアイ戦を迎えていたが、最終戦を前にブラジルはウルグアイに対し勝点でも得失点差でも上回っており、この試合で引分けに終わっても優勝が決まる状況だった。 同年7月16日のウルグアイ戦当日は、ペレの家にブラジルの勝利を祝おうと父の友人達が大勢訪れ、パーティを開きラジオの実況に聞き入っていたが、幼かったペレは大人と一緒にラジオの実況に聞き入るより外で友人達とサッカーをして遊ぶことに夢中になっていた[27]。
幼少期