ペレ
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イタリアではFIFAワールドカップでの代表チームの成績不振を理由に1966年から1980年の間イタリア系アルゼンチン人以外の外国籍選手との契約を禁止[56]、スペインでも1965年から1970年代初頭まで外国籍選手との契約を禁止[57]するなど、他国のリーグでプレーをする機会は必ずしも多くは無かった。

ペレは他の多くの選手と同様にブラジル国内に留まってプレーを続けて、国内のリーグ戦で世界トップレベルの技術を磨いていた[58][注 4]
国際タイトルの獲得

ジウマールリママウロカウヴェダルモオラヴォジトペレドルバウコウチーニョペペ
1962年10月11日インターコンチネンタルカップ第2戦、SLベンフィカ戦のスタメン。ペレを下がり目のFWに配した4-2-4の布陣。

1962年、南米のクラブ王者を決めるコパ・リベルタドーレスに出場し決勝に進出。ウルグアイのペニャロールとの対戦となったが、1勝1分で迎えた最終戦でペレの2得点などで勝利し、ブラジル勢として初のタイトルを獲得した[60]。この勝利によりインターコンチネンタルカップへの出場権を得てエウゼビオを擁するポルトガルのSLベンフィカと対戦。ホームでの第1戦は自身の2得点などで3-2と勝利。敵地リスボンでの第2戦も好調なプレーを維持[60]。ベンフィカの守備陣を翻弄し3得点1アシストという活躍で5-2と勝利を収め、クラブ世界一となった。なおリスボンで行われた試合を「私のキャリアにおいて最高の試合」「素晴らしい内容で、生涯忘れることの出来ない芸術的な試合」と語っている[60]

1963年にもコパ・リベルタドーレスに出場してアルゼンチンのボカ・ジュニアーズを下して大会2連覇、インターコンチネンタルカップにおいてもイタリアのACミランを下して2年連続クラブ世界一となった。

一方で数々のタイトルを獲得し著名になっていったことで、ペレは対戦相手から執拗なマークを受けるようになった[61]。かつてのような新進気鋭の若手選手ではなく打倒すべき勝利者とみなされ、クラブや代表チームでもいかにペレの動きや周囲とのコンビネーションを止めるかに焦点が当たるようになった[61]。相手DFはペレがどこのポジションに付いていても終始マンマークを付けてラフプレーも辞さない激しいプレーを仕掛け[61]、時には言葉による挑発を仕掛けて故意に退場を誘おうとする選手もいた[61]

この頃にはブラジル国内においても高額の収入を得るようになっていた[62]が、「ペレ」の愛称が多くの価値を生み出すことに気が付き、商標権を獲得して様々な商品に名前の使用を認めることで更に多くの収入を得るようになった[62]。またサントスFCのチームメイトを誘い投機事業に出資を行うなどした[62]が、一切の財産管理を一任していた人物が投機に失敗し多額の借金を背負うことになった[63]。ペレはクラブの役員会で事情を説明し、クラブ側に有利な条件で契約を更改するかわりに借金を肩代わりしてもらうことになった[63]
アフリカ遠征

クラブは必要な資金を捻出するために依然として国外への遠征ツアーを続けていたが、それまでの欧州や南米だけでなくアジアアフリカ北米といったサッカーの後進地域のチームとも試合を行うようになった。特に自らのルーツであるアフリカに遠征した際には世界観が変わっただけでなく、社会における自分の立場のあり方を考える契機になった[64]。ペレは人種差別のない国で黒人が社会的に成功を収める事が出来る生きた証として崇拝の対象となり[65][66][67]、アフリカの人々はペレの姿を一目見ようとスタジアムだけでなく空港まで押し寄せるなど各地で熱狂的に迎えられた[65][66][67]

1969年1月、最初の遠征地であるコンゴはコンゴ民主共和国コンゴ共和国の間で紛争状態にあった[68]が、双方の指導者は試合観戦のために休戦に合意した[68]。サントスFCはコンゴで数試合を行い、同月23日のコンゴ民主共和国代表戦では2-3で敗れたが、この試合を記念して同国大統領のモブツ・セセ・セコは「国民のスポーツの日」と定めた[68]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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