「ペレ」の愛称は父親の所属していたサッカークラブ、ヴァスコ・デ・サンロレンソのGKの「ビレ (Bile) 」のファンであったことに由来している[24]。当時のペレは幼かったことや、ミナス・ジェライス訛りもあって「B」の発音が出来ず「P」と発音していた。いつしかクラスメイトから自身も「Pele」と呼ばれるようになったが、本人は少年時代はこの呼び名を好んでおらず、「エジソン」と呼ばれることを望んでいた。そのため、時にはペレと呼んだ友人を殴り2日間の停学処分を受けたこともあった[24]。また、ペレの愛称が定着するまでは父親の愛称である「ドンジーニョの息子」[25]、家族からは「ジッコ」と呼ばれていた[13][24][26]。
1950年、ペレが9歳の時に地元ブラジルで1950 FIFAワールドカップが開催された。同大会でブラジルは優勝候補の本命と目され[27]、1次リーグのスイス戦を引き分けた以外は無敗で勝ち上がり、最終戦のウルグアイ戦を迎えていたが、最終戦を前にブラジルはウルグアイに対し勝点でも得失点差でも上回っており、この試合で引分けに終わっても優勝が決まる状況だった。
同年7月16日のウルグアイ戦当日は、ペレの家にブラジルの勝利を祝おうと父の友人達が大勢訪れ、パーティを開きラジオの実況に聞き入っていたが、幼かったペレは大人と一緒にラジオの実況に聞き入るより外で友人達とサッカーをして遊ぶことに夢中になっていた[27]。そしてブラジルが終了間際に失点し1-2で敗れ優勝を逃すと(マラカナンの悲劇)、家中は深い悲しみに包まれ、パウルの街全体も静まりかえった[27]。ペレはこの光景にショックを受け、父やほかの大人たちとともに涙を流したものの[28]、悲しみにくれていた父を励まそうと、悲しまないで。いつか僕がブラジルをワールドカップで優勝させてあげるから。 ? ペレ
と約束したという[27][29]。また、自身がサッカー選手になってからは「いつかはきっと、自分の手でウルグアイへのあだ討ちを果たそう」と誓ったという[28]。 10代になると、バウル市の内外の複数のクラブを渡り歩き、2から3チームを掛け持ちしてプレーをするほどだったが、学業の方は疎かになり、母の意向に反して落第生になっていた[30]。 1954年に地元のバウルAC
少年時代
その後、ヴァウデマールは他のクラブの指導をすることになりバキーニョを去っていったが、その後も連絡を取り合い、15歳の時に両親を説得してサントスFCへの入団を取り持った[35]。 1956年にサントスに入団。しかし体重が60kgに満たない華奢な体躯であった[36]こともあって直ぐにトップチームでプレーすることは叶わず、リザーブチームやユースチームでトレーニングを積むことになった[37]。月給6000クルゼイロで仮契約を結び[38]、それまで生活していたバウルを離れてクラブの合宿所での生活に入った[36]。数ヶ月後、同年9月7日のコリンチャンスとの親善試合でデビューを果たし(試合は7-1でサントスの勝利)この試合で初得点を決めた[39]。国内のリーグ戦でFWのヴァスコンセロスが骨折し戦列を離れたことをきっかけに出場機会を得るようになった[40][41]。ヴァスコンセロスはペレの入団以来、先輩として友人として親しく接していたが[41]、この怪我からの復帰後も以前のようなプレーを取り戻す事は出来ず、他のクラブへ移籍した[41][42]。1957年のサンパウロ州選手権では得点王となり、同年4月8日に正式契約を結んだ[43]。 1958年には同じくFWを務めていたエマヌエレ・デル・ヴェッキオ
クラブ経歴
サントスFC
プロデビュー