ペレ
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

180cm以上ある長身を生かし1試合にヘディングだけで5得点を決めたこともあるヘディングの名手であり[12][13]、ミナスジェライス州の州都ベロオリゾンテを本拠地とする強豪クラブのアトレチコ・ミネイロに所属していたこともあったが[14]、膝を痛めて退団した[14][15]。その後は小規模なクラブに所属し低い給与でプレーするなど、サッカー選手としての成功とは無縁の人生だった[12][注 3]

ペレはサッカー選手としてのドンジーニョについて「ハンサムですばらしい体の持ち主だった。柔軟な体、たくましい脚、力強さを内に秘めた、サッカー選手としては完璧な肉体を持っていた」と述べ[18]、父親としては「短気な母のドナ・セレステとは対照的に、冷静でおとなしく、言葉を口にする前に注意深く考え、言ったことに対しては絶対に責任を取る、というタイプの人間だった。私にとっては、素晴らしい父親であった」と述べている[18]
幼少期

1944年に父親がサンパウロ州バウルのクラブへ移籍したことを契機に家族でバウルへ引越した[14]。しかし、父は選手としてプレーを続けたが後に膝の故障が基で現役を引退した[19]。これにより収入が途絶え生活に困窮したが、ペレはドンジーニョの再就職先が見つかるまでの間、靴磨きの仕事で家計を助けていた[19]。母親は厳格な人物でペレに対し経済的に不安定なサッカー選手ではなく高い教育を受け真っ当な職業に就くように厳しく躾けていた[19]

ペレは当初は飛行機の操縦士になることを夢見ていたが[20][21]、ある日友人と病院の近くでサッカーをしていた時に仲間の一人が死体置き場と思われる地下室を見下ろせる天窓を見つけ、中を覗き込んでいたところグライダーで墜落死した飛行士の解剖が行れていた[22]。そこで医者が飛行士の腕を持ち上げたりよじったりしていると突然死体が口から血を噴き出し[22]、この光景を見て身動きが取れなくなって吐き気を催すほど大きなショックを受けたペレは[22]、このことが理由で飛行士になる夢を完全に捨てた[22]。やがて父と同じサッカー選手を志すようになり、母の目を盗んで父からサッカーに必要な技術や心構えを学んでいった[23]

「ペレ」の愛称は父親の所属していたサッカークラブ、ヴァスコ・デ・サンロレンソのGKの「ビレ (Bile) 」のファンであったことに由来している[24]。当時のペレは幼かったことや、ミナス・ジェライス訛りもあって「B」の発音が出来ず「P」と発音していた。いつしかクラスメイトから自身も「Pele」と呼ばれるようになったが、本人は少年時代はこの呼び名を好んでおらず、「エジソン」と呼ばれることを望んでいた。そのため、時にはペレと呼んだ友人を殴り2日間の停学処分を受けたこともあった[24]。また、ペレの愛称が定着するまでは父親の愛称である「ドンジーニョの息子」[25]、家族からは「ジッコ」と呼ばれていた[13][24][26]

1950年、ペレが9歳の時に地元ブラジルで1950 FIFAワールドカップが開催された。同大会でブラジルは優勝候補の本命と目され[27]、1次リーグのスイス戦を引き分けた以外は無敗で勝ち上がり、最終戦のウルグアイ戦を迎えていたが、最終戦を前にブラジルはウルグアイに対し勝点でも得失点差でも上回っており、この試合で引分けに終わっても優勝が決まる状況だった。

同年7月16日のウルグアイ戦当日は、ペレの家にブラジルの勝利を祝おうと父の友人達が大勢訪れ、パーティを開きラジオの実況に聞き入っていたが、幼かったペレは大人と一緒にラジオの実況に聞き入るより外で友人達とサッカーをして遊ぶことに夢中になっていた[27]。そしてブラジルが終了間際に失点し1-2で敗れ優勝を逃すと(マラカナンの悲劇)、家中は深い悲しみに包まれ、パウルの街全体も静まりかえった[27]。ペレはこの光景にショックを受け、父やほかの大人たちとともに涙を流したものの[28]、悲しみにくれていた父を励まそうと、悲しまないで。いつか僕がブラジルをワールドカップで優勝させてあげるから。 ? ペレ

と約束したという[27][29]。また、自身がサッカー選手になってからは「いつかはきっと、自分の手でウルグアイへのあだ討ちを果たそう」と誓ったという[28]
少年時代

10代になると、バウル市の内外の複数のクラブを渡り歩き、2から3チームを掛け持ちしてプレーをするほどだったが、学業の方は疎かになり、母の意向に反して落第生になっていた[30]

1954年に地元のバウルAC(英語版)が下部組織(通称バキーニョ)を創設することに伴い、同チームに入団[31]。そこで父の古くからの友人であり元ブラジル代表選手のヴァウデマール・デ・ブリト(英語版)に出会い指導を受けることになった[32]。ヴァウデマールはペレの才能に着目し、体のあらゆる部位を使ったボールコントロールの重要性、試合の流れを読むコツ、ボールのない所(オフ・ザ・ボール)での動きなどを厳しく教え[33]、選手として成長する上で父と同様に影響を与えることになった[34]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:345 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef