ペレストロイカ
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ゴルバチョフが 「ペレストロイカは革命である。」と発言したことからゴルバチョフ革命や第2の革命とも呼ばれた[2]
概要

ソビエト連邦共産党による一党独裁制が60年以上も続いたことにより、硬直した政府を立て直すため、1985年共産党書記長最高指導者)に就任したミハイル・ゴルバチョフが提唱・実践した。あわせて進められたグラスノスチ(情報公開)とともに、ソビエト連邦の政治を民主的な方向に改良していった[3]

元々は経済面のみの改革だったがチェルノブイリ原子力発電所事故の影響で政治面の改革も行うようになる[4][5]

1987年のロシア革命70周年記念の軍事パレードの際、ロシア語で「民主主義、平和、ペレストロイカ、加速[注釈 2]」と書かれた大きな立て看板がグム百貨店に立てかけられ、テレビ中継でアナウンサーが読み上げた[6]。以降、ソ連国内に広く浸透していった。ゴルバチョフは、社会主義体制の枠内での改革を志向したが、市場導入が逆に経済混乱につながり、物価高に物資の不足により高まる国民の不満や共産党内の保守層が行ったソ連8月クーデターを背景に、社会主義体制そのものの放棄と、連邦制の崩壊につながった。

現在では、共産圏の民主化を進めるとともに冷戦を終結させた政策として、主に旧ソ連以外の各国で高く評価されている。英語圏の国では「リストラクチャリング」[注釈 3]や「リコンストラクション」[注釈 4]と訳され、1980年代後半のイギリスサッチャー政権やアメリカ合衆国レーガン政権で行われた行財政改革・産業構造の転換政策あるいは民間企業の組織再編成などを指して使われた。これは、日本1990年代後半頃から使用されている「リストラ」の語源となった単語である。

改革早々にウランの生産量が4倍以上に膨れた。終盤のエリツィン時代に外国銀行の干渉を受けて官公事業が非民主的に払い下げられた。カザフスタンの分離に伴い、ロシア連邦となってからウラン生産量は改革前の水準へ戻った[7]

コーカサスではカタストロイカと呼ばれる。民族意識が高揚し、1987年半ばにアゼルバイジャン内で起こったナゴルノ・カラバフ紛争を皮切りにこの地域でも民族対立が表面化した。ナゴルノ・カラバフの問題は2023年に一応の解決がつくこととなったが、依然として紛争は絶えない。[8]
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 「пере(ペレ)」は「再び」を意味する接頭辞、「стройка(ストロイカ)」は「構築」「建設」を意味する単語
^ : Демократия, Мир, Перестройка, Ускорение
^ : re-structuring
^ : re-construction

出典^ a b c “「ペレストロイカで議論された課題の多くは未解決のまま」 ゴルバチョフ氏インタビュー詳報:東京新聞 TOKYO Web”. 東京新聞 TOKYO Web. 2022年2月1日閲覧。


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