ペルー
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2021年のペルーのGDPは2,259億ドル、1人当たりのGDPは6,680ドルである[19]

アンデス共同体の加盟国、メルコスールの準加盟国であり、アジア太平洋経済協力南米共同体の加盟国でもある。

現行の通貨はs/. ヌエボ・ソル Nuevo Sol(訳 : 新しいソル。ソルは太陽を表す。かつての通貨ソルに代わって導入された)その下に補助通貨単位としてセンティモ(Centimo)、s/.1=100Centimosが存在する。

産業の中心は、亜鉛などの鉱業である。特に銀は世界第2位の産出量である(2003年)。石油ガスなどの天然資源も産出する。ただし、鉱山の近くでは、適切な環境保全対策や、住民の保護が全く行われておらず、周辺住民は住まいを追われ、鉱毒に侵されている[20]

また、漁業は古くから盛んであり、1960年代には漁獲高で世界一を記録していた[21]。2003年においても中華人民共和国に次いで世界第2位の漁獲高を記録。水産業もペルーの主要な産業であると言える。
貿易

2021年の輸出額は573億3,700万ドル、輸入額は510億8,300万ドルとなった。

輸出相手国上位5カ国は中国、アメリカ、韓国、日本、カナダであり、中国とアメリカの2カ国で輸出額の約45%を占めている。主要輸出品は銅、金、亜鉛などの鉱物資源や、ブドウ、ブルーベリー、アボカドなどの農産物である[22]。ペルーは2020年にブルーベリーで世界2位、アボカドで世界4位の生産国となった[23]。輸入相手国上位5カ国は中国、アメリカ、ブラジル、アルゼンチン、メキシコであり、中国とアメリカの2カ国で輸入額の約47%を占めている。主要輸入品は燃料や輸送機器、電気製品などである[22]
日本との貿易

2021年の日本の輸出額は10億2,500万ドル、日本の輸入額は29億3,300万ドルとなり、日本がペルーから輸入する金額の方が多くなっている。ペルーへの輸出品は自動車、電気製品、タイヤなどである。ペルーからの輸入品は銅、亜鉛、鉄などの鉱物資源、原油、天然ガスなどである[22]
観光詳細は「ペルーの観光地(英語版)」を参照
国民詳細は「ペルー人」を参照1961年から2003年までのペルーの人口動態グラフ。シエラのケチュア系ペルー人の親子。シエラのヨーロッパ系ペルー人。クスコ大聖堂。

植民地時代にリマがペルー副王領の首都であり、そのため独立前からクリオージョ支配層がグアテマラメキシコと並んでラテンアメリカで最も貴族的な階層を築き上げていた。独立後もその傾向が是正されず国民意識が白人層にしか共有されなかったという問題は現在[いつ?]も続く。しかし2001年7月28日 - 2006年7月28日までチョロ(インディオ系ペルー人)の愛称で有名になったアレハンドロ・トレドが大統領に上ったことから現在[いつ?]国民意識が変わりつつある。現在[いつ?]のペルー人に共通し、これがペルー人であるという答えは多様な人種から生まれた文化であることだ。

ペルーの民族構成はメスティーソ45%、インディヘナ(先住民、公式にはカンペシーノなどと呼ばれる)37%、ヨーロッパ系ペルー人15%、アフリカ系ペルー人、中国系ペルー人(華人)と日系をはじめとするアジア系ペルー人などその他3%とされており、非常に複雑で多様な人種から構成されている。長らく日系ペルー人は8万人といわれてきたが、この調査は数十年前に行なわれたものであり、しかも当時、ペルー国外に住む日系ペルー人は調査対象とはならなかったうえ、日本人の血の割合が低い混血の人たちをカウントしなかった。これらの事実と、その後の自然増を勘案すれば、現在[いつ?]の日系ペルー人は数十万に達している可能性がある。

インディヘナに関してはケチュア人アイマラ人が圧倒的に多いが、セルバのアマゾン低地にも多数の民族集団があり、近年[いつ?]彼らの文化の独自性がどれだけ保たれるかが懸念されている。

アフリカ系ペルー人は植民地時代にコスタの大農園での労働力として導入された黒人奴隷の子孫である。アフリカ系ペルー人の文化はコスタの音楽や舞踊、宗教、食文化など広範な分野に大きな影響を与えている。

ヨーロッパ系ペルー人としては、植民地時代からのスペイン人の他に、イタリア人フランス人ドイツ人バスク人などが1850年から1880年の間に2万人ほど流入した。

アジア系ペルー人としては、やはり1850年から1880年の間に10万人ほどの中国人(クーリー)が流入し、コスタの現地文化に同化した。中国人の導入が廃止された後は日本人が導入され、1899年から1923年までの間に2万1000人の日本人が契約移民として流入した。ヨーロッパ系もアジア系も移民は1854年の黒人奴隷解放後に、黒人奴隷に代わってのコスタのプランテーションでの労働力として導入された。

その他のマイノリティとしてはアラブ人ユダヤ人アメリカ人など。他のラテンアメリカ諸国からやってきた人間も少なからずいる。
人口詳細は「ペルーの人口統計(英語版)」を参照

インカ帝国時代に1,000万人を越えていたと推測されている人口は、植民地時代に急激に減少し、独立直後の1826年に約150万人となっていた。その後1961年の国勢調査で10,420,357人、1972年では13,538,208人、1983年年央推計では約1,871万人となった。

1940年代から始まったシエラからコスタ(特にリマ)への国内移民のため、現在のリマは人口800万人の大都市圏を形成しており、これはペルーの総人口の約30%程である。

人口増加率 : 1.39%
言語詳細は「ペルーの言語(英語版)」を参照

公用語はスペイン語(ペルー・スペイン語)、ケチュア語(1975年から)、アイマラ語(1980年から)であり、人口の大部分はスペイン語を話す。セルバのアマゾン低地では、先住民によって独自の言語が話されている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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