ペルー共和国(ペルーきょうわこく、ケチュア語: Piruw Republika、アイマラ語: Piruw Suyu)、通称ペルーは、南アメリカ西部に位置する共和制国家。首都はリマ。
北にコロンビア、北西にエクアドル、東にブラジル、南東にボリビア、南にチリと国境を接し、西は太平洋に面する。
紀元前から多くの古代文明が栄えており、16世紀までは当時の世界で最大級の帝国だったインカ帝国(タワンティン・スウユ)の中心地だった。その後スペインに征服された植民地時代にペルー副王領の中心地となり、独立後は大統領制の共和国となっている。
国名ペルーの古地図(1652年)
公用語による正式名称は、スペイン語表記では「Republica del Peru(レプブリカ・デル・ペルー)」。ケチュア語、アイマラ語表記は共に「Piruw」である。通称は Peru。公式の英語表記は「Republic of Peru(リパブリック・ オヴ ・ペルー)」で、国民・形容詞はPeruvianで表される。日本語表記による正式名称の訳はペルー共和国。通称はペルー。漢字表記では秘露, 平柳と記される。
ペルー[注釈 1]という言葉の語源には諸説あるが、16世紀始めにパナマ地峡のサン・ミゲル湾付近を支配していたビルー[注釈 2]という首長に由来し、パナマの南にビルーという豊かな国が存在するとの話を当地の先住民から伝え聞いたスペイン人が転訛してピルーと呼ぶ様になり、それがペルーになったというものが最も有力な説である。その後、スペイン人のコンキスタドールによってインカ帝国はペルーと呼ばれ、そこからペルーという言葉がこの地域を指す名称となった。植民地時代にはペルー副王領が成立し、19世紀に独立した後もペルーの名が用いられている。
歴史詳細は「ペルーの歴史」を参照
先コロンブス期「先コロンブス期」および「アンデス文明の歴史」も参照ウアコ・ワリ。
紀元前3000年から紀元前2500年ごろにスーペ谷に、カラル(Caral)という石造建築を主体とするカラル遺跡(ノルテ・チコ文明(英語版))が現れる。
1000B.C.ごろ - 200B.C.ごろ、アンデス山脈全域にネコ科動物や蛇、コンドルなどを神格化したチャビン文化が繁栄する。その後、コスタ(スペイン語版)北部にモチェ文化がA.D.100ごろ - A.D.700ごろ、現トルヒーリョ市郊外に「太陽のワカ」「月のワカ」を築き、コスタ南部では、A.D.1ごろ - A.D.600ごろに、信仰や農耕のための地上絵を描いたナスカ文化が繁栄した。
紀元800年ごろ、シエラ(スペイン語版)南部のアヤクーチョ盆地にワリ文化が興隆した。ティワナクの宗教の影響を強く受けた文化であったと考えられ、土器や織物に地域色は見られるものの統一されたテーマが描かれること、いわゆるインカ道の先駆となる道路が整備されたこと、四辺形を組み合わせた幾何学的な都市の建設などからワリ帝国説が唱えられるほどアンデス全域にひろがりをみせ、1000年ごろまで続いたと考えられる。コスタ北部のランバイエケ地方には、金やトゥンバガ製の豪華な仮面で知られるシカン文化がワリ文化の終わりごろに重なって興隆した。
その後、コスタ北部にはチムー王国が建国され、勢力を拡大した。首都チャン・チャンの人口は25,000人を越え、王の代替わりごとに王宮が建設されたと思われる。
タワンティン・スウユの繁栄と滅亡「インカ帝国の失われた都市」マチュ・ピチュ。第九代インカ パチャクティ。最後のインカ トゥパク・アマルー。
15世紀になりクスコ周辺の南部の山岳地帯が、1438年に即位したケチュア人の王パチャクテクによって軍事的に統一されると、以降は征服戦争を繰り広げて急速に勢力を拡大してきた、ケチュア人によるタワンティン・スウユ(ケチュア語: Tawantin Suyu、インカ帝国)によってペルー、および周辺のアンデス地域は統合される。
続くトゥパク・インカ・ユパンキの代になると、チムー王国も1476年ごろに征服されて、その支配体制に組み込まれた。続くワイナ・カパックの征服によりアンデス北部にも進出し、アンデス北部最大の都市だったキトを征服することになる。またワイナ・カパックはマプーチェ人と戦ってチリの現サンティアゴ・デ・チレ周辺までと、アルゼンチン北西部を征服し、ユパンキの代から続いていた征服事業を完成させ、コジャ・スウユ(ケチュア語: Colla Suyo、「南州」)の領域を拡大させると共にインカ帝国の最大版図を築いた。
インカ帝国はクスコを首都とし、現ボリビアのアイマラ人の諸王国や、チリ北部から中部まで、キトをはじめとする現エクアドルの全域、現アルゼンチン北西部を征服し、その威勢は現コロンビア南部にまで轟いていた。インカ帝国は幾つかの点で非常に古代エジプトの諸王国に似ており、クスコのサパ・インカを中心にして1200万人を越える人間が自活できるシステムが整えられていた。帝国は16世紀初めごろまで栄えていたが、いつのころからか疫病が流行し(パナマ地峡から南にもたらされたヨーロッパの疫病である)、帝位継承などの重大な問題を巡ってキト派のアタワルパと、クスコ派のワスカルの間で激しい内戦(スペイン語版、英語版)(1529年 ? 1532年)が繰り広げられた。
内戦はアタワルパの勝利に終わったが、内戦の疲弊の隙にパナマからコスタ北部に上陸したフランシスコ・ピサロ率いるスペインの征服者たちがインカ帝国を侵略することになった。征服者達は手早くクスコを征服すると、1533年に第13代皇帝アタワルパを絞首刑にして、アンデスを支配していた帝国としてのインカ帝国は崩壊した。ピサロは1534年にリマ市を建設すると、以降このコスタの都市が、それまで繁栄していたクスコに代わってペルーの中心となる。その後、1572年にスペイン人の支配からビルカバンバに逃れていた最後の皇帝トゥパク・アマルーが捕らえられて処刑され、インカ帝国はその歴史の幕を閉じた。
スペイン植民地時代「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照
植民地下のペルーでは、最初期は南アメリカ全体を統括していたペルー副王領の首都が高山のクスコから太平洋沿岸のリマに移され、金銀などの鉱物の搾取が宗主国スペインによって行われた。ミタ制によってポトシ鉱山開発に酷使された先住民の多くは苦役の末に死亡し、その数は100万人とも言われる。