ペルー人
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19世紀から20世紀にかけてやってきた、イタリア、イギリス、フランス、ドイツアイルランドオランダポルトガルスイスポーランドクロアチアなどのその他のヨーロッパ系もいる。彼らの大半はやはり大都市に住み、たいていの場合北部・中部の都市、すなわちリマやトルヒーリョ、チクラヨ、ピウラなどである。白人人口が非常に多い唯一の南部の都市がアレキパである。パスコ地方のオクサパンパとポスソ、そして北西部全域(海岸地方やカハマルカサン・マルティンなど)において相当の白人人口が見られ、その多くはスペイン、ドイツ、イギリス、フランス、イタリアの入植者の子孫である。2000年以降のペルーでは、生活コストの低さや景気の良さなどによって、アメリカ人の退職者やビジネスマンが移住してくることも多い。
アジア系

アジア系ペルー人、特に東アジアの中国人や日本人、さらに最近になって増加したフィリピン人[19]やその他のアジア系移民はかなり存在し、人口の3%を占める。この総人口に対する割合は、パナマに続き、ラテンアメリカの国の中で2番目に多い。ペルーでは、ブラジルに続き、ラテンアメリカで2番目に日系の子孫の人口が多く、中国系についてはラテンアメリカで最も人口の割合が高い。中国系の子孫が住んでいた歴史的なコミュニティはペルーのアマゾン川上流のいたるところに見られ、その都市はユリマグアス、ナウタ、イキトス、そして北西部の海岸地方(ランバイエケやトルヒーリョ)などである。中国系の人々は、副王時代にペルーの稲田に労働者としてやってきたり、奴隷廃止時代に、アフリカの奴隷と取って代わるようにやってきて以来、日系の人々とは対照的に、現地の人々と国際結婚をしていたようだ。アジア系ペルー人の継承の誕生は非常に最近のものであるにもかかわらず、ここ数十年で、彼らはビジネスと政治の分野において著しく発展に貢献した。元大統領(アルベルト・フジモリ)、数名の閣僚、ペルー共和国議会のメンバーの一人は日本あるいは中国の血を引き継ぐ人であった。アラブ系ペルー人、主にレバノンシリアに起源を持つ人々、さらにパレスチナ人もたくさん在住し、ユダヤ人ヒンドゥスタン人、パキスタン人なども少数だが存在する。
黒人アフリカ系

残りはアフリカ系ペルー人で構成されていて、総人口の約1.2%を占め[15]、植民地時代の奴隷輸入者としてペルーの歴史に残る人々である。今日では、ムラート(アフリカ系とヨーロッパ系の混血)とザンボ(アフリカ系とアメリカインディアンの混血)が人口の重要な一部ともなっており、特にピウラ、トゥンベス、ランバイエケ、リマ、イカなどの地域においてである。アフリカ系ペルー人の人口は主にイカ地方などのリマ南部の海岸都市に集中しており、カニェテ、チンチャ、イカ、ナスカ、アレキパ地方との県境であるアカリなどである。規模は大きいが、あまりよく知られていないアフリカ系ペルー人が住む場所としては、ユンガ地方が挙げられる(北ペルーのアンデス山脈南西部)(ピウラやランバイエケなど)。その地域では、サトウキビレモンマンゴーなどの生産がいまも盛んである。モロポン(Morropon)地方全域では、特にチュルカナス市などに重要なコミュニティが散在する。その一つがチュルカナス市にあるヤパテラ(Yapatera)であり、カンチャケ(Canchaque)に近い山脈地方にも"Pabur"やラ・マタンサ(La Matanza)などのような小さな農業地帯などがある。もっと南側には、サニャという植民都市や、"Capote"やトゥマンといったランバイエケの農業都市などの、重要な黒人アフリカ系が住む地域がある。

Racial and Ethnic Composition in Peru (2006 self-identification survey)[15]
Instituto Nacional de Estadistica e Informatica (INEI)
Race/Ethnicity
メスティーソ  59.5%
ケチュア  22.7%
アイマラ  2.7%
アマゾン  1.8%
白人  4.9%
黒人ムラート  1.6%
その他  6.7%

独立後の移民

独立後、徐々にヨーロッパからの移民、特に英国、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリア、クロアチア、スペインなどからの移民が増加した[20]ポリネシア人たちは1860年代、グアノという資源がブームになっていた年にグアノ島に労働者としてやってきた。中国人は、1850年代に北部海岸の砂糖プランテーションの奴隷労働者と取って代わるようにやってきて、それ以来ペルー社会に大きく影響を与えてきた[21]。その他の移民集団はアラブ南アジア、日本、アメリカ合衆国などからであった。
言語

2007年時点で、5歳以上のペルー人の83.9%が最初に習得していたといわれるスペイン語が最も主要な言語である。スペイン語と共存する言語がいくつかあり、その中で最も広く使用されるのはケチュア語であり、人口の13.2%が話す。その他の先住民言語と外国語はそれぞれペルー人の2.7%と0.1%が使用している[22]。読み書きができる人々は2007年時点で92.9%であり、これは郊外地方での割合(80.3%)と都市部での割合(96.3%)との平均である[23]。小学校と中学校は義務教育であり、公立学校では無料で教育を受けられる[24]
宗教

ペルーの宗教(2007年)
ReligionPercent
ローマ・カトリック  81.3%
福音主義  12.5%
その他  3.3%
無宗教  2.9%

2007年の調査によると、12歳以上のペルー人人口の81.3%が自身をカトリック教会信者であると述べ、12.5%が福音主義、3.3%がセブンスデー・アドベンチスト教会などを含むその他の宗教を信仰し、2.9%は無宗教であると答えた[25]。"Lord of Miracles"という壁画はイエス・キリストの17世紀に黒人奴隷によって描かれたものであり、リマやペルーのカトリック祭典などで崇められ、世界で最も大きなカトリック行列の一つである。毎年10月、人種や経済的背景に関係なく、数十万人の信者が紫の衣装をまとい、リマの通りで宗教行列をなして「黒いキリスト(Black Christ)」を祝う。17世紀と18世紀に起こったリマを襲った地震によって街のほとんどが破壊されたが、その壁画だけは崩れずに立ち続けたことで、"Christ of Pachacamilla"としても知られるその壁画への熱狂的な信仰に拍車がかかった。
文化

ペルーの文化は主にアメリカインディアンとスペインの伝統を引き継いでいるが[26]、アフリカやアジア、ヨーロッパの民族集団による影響も大いに受けている。ペルーの伝統芸術は、精巧に作られた陶器繊維宝石、そしてプレ・インカの彫刻などの時代までさかのぼる。インカ帝国はこういった技術を維持し、マチュピチュの建設を含む、建築的偉業を成し遂げてきた。現存した伝統の影響を受けつつも、バロック様式が植民地時代の芸術を凌駕していった[27]。この時代には、ほとんどの芸術は宗教的なことに主眼をおいていた。当時の数多くの教会やクスコ派の絵などがその代表である[28]。独立後、芸術は20世紀前半にインディヘニスモが台頭するまでは停滞していた[29]。1950年代以来、ペルー芸術は外国と地方の両方のアートの流れによって活発に形成されてきた[30]
文学

ペルー文学は先コロンブスの市民の口承にルーツを持つ。16世紀になってスペイン人が書くということを伝えた。植民地時代の文学表現は年代記や宗教文学を含む。独立後は、リカルドパルマの作品に代表されるように、俗描写主義とロマン主義が最も広く受け入れられる文学ジャンルとなった[31]。20世紀初期にはインディヘニスモによる社会運動がシーロ・アレグリア[32]ホセ・マリア・アルゲダス[33]セサル・バジェホ[34]などの作家を生み出した。20世紀後半には、ペルー文学は、ラテンアメリカ文学ブームの第一人者であるノーベル文学賞作家マリオ・バルガス・リョサなどによって幅広く知られるようになった[35]。" Maria Jesus Alvarado Rivera"という女性は反逆的なフェミニスト教育者ジャーナリスト、作家であり社会活動家でもあった。彼女は1969年のペルー人女性の国民評議会において、「ペルーで最初に女性の権利を擁護した人」として知られている[36]


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