旧幹線道路の他の区画は、建築用に貸し出された。東端はフィリップ・ウォリック(英語版)に引き渡され、彼はここにウォリック・ハウス(英: Warwick House、現ウォリック・ハウス・ストリート付近)を建設した。またジョン・デンナム(英語版)にも土地が与えられ、この区画はマールバラ・ハウス(英語版)の土地の一部となった。西端の貸し出し区画には、セント・ジェームズ宮殿とセント・ジェームズ・ストリートの角にあったテニス場の間の区画や、バーバラ・パーマー(クリーヴランド公爵夫人)に貸し出され、クリーヴランド・ロウ8?12番地とストーノウェイ・ハウス[注釈 7]が作られた区画が含まれる[6]。18世紀ロンドンで活躍した出版者のアンドルー・ミラー(英語版)は、ロバート・アダム(英: Robert Adam)が設計したパル・マル34番地のタウンハウスに居住していた[15]。
その後の歴史小ジョージ・ダンス(英語版)のボイデル・シェイクスピア・ギャラリーは、1788年にパル・マル52番地に建てられ、1868年から1869年に取り壊された。この絵はブリティッシュ・インスティテューション(英語版)が購入した後であり、1851年の様子を描いている[16]
18世紀までに、パル・マルは商店と華麗な住宅で知られるようになった。ベンジャミン・ヴリアミーなどヴリアミー家(英語版)は、1765年から1854年まで68番地で時計製作を行った。ロバート・ドッズリー(英語版)は52番地で本屋を営み、サミュエル・ジョンソンに辞書出版を進言したという。18世紀には作家や芸術家がパル・マルに移り住むようになり、リチャード・コズウェイやトマス・ゲインズバラは、80?82番地のションバーグ・ハウス(英語版)に住んでいた[16]。
1807年6月4日にフリードリッヒ・アルベルト・ヴィンツァー(英語版)(フレデリック・アルバート・ウィンザー)がジョージ3世の誕生日を祝って実験点灯を行った後、通りはロンドンで初めてガス灯に照らされた場所のひとつとなった。恒久的な照明設備は1820年に導入された[16]。ペル・メルの東端は1814年から1818年にかけて拡張され、北側の家並びはロイヤル・オペラ・アーケード(英: Royal Opera Arcade)を作るため取り壊された[6]。
パル・マルは、19世紀から20式初頭にかけて作られた多くの紳士クラブ(英語版)でも知られる。トラヴェラーズ・クラブ(英語版)は1819年創立で、1822年にパル・マル49番地に移転した。106番地にある現在の建物は、1823年にチャールズ・バリー(英語版)が建設したものである[17]。アシーニアム・クラブ(英語版)の名前は、ローマにハドリアヌス帝が建てた大学、Athenaeum に由来する。クラブは1830年に、サマセット・ハウスの貸間からパル・マル107番地へ転居した。エントランス・ホールはデシマス・バートン(英語版)が設計したものである[18]。104・105番地にあるリフォーム・クラブ(英語版)は、1836年にイギリスの急進派(英語版)が設立した[19]。36?39番地のアーミー・アンド・ネイヴィー・クラブ(英語版)は1837年に作られた。この名前は、イギリス海軍兵用のクラブとして、ウェリントン公が提案したものである[20]。他にも、ユナイテッド・サービス・クラブ(英語版)(建物は現在経営者協会(英語版)が使用)、オックスフォード・アンド・ケンブリッジ・クラブ(英語版)、ロイヤル・オートモバイル・クラブ(英語版)などが知られている[16]。パル・マル100番地、1824年から1834年までナショナル・ギャラリーが所在[21]
パル・マルは一時、ロンドンの一流芸術の中心地だった。1814年には、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ、ナショナル・ギャラリー、クリスティーズのオークション・ハウスが全てパル・マルに集まっていた[22]。