ペリービルの戦い
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ケンタッキー方面作戦の作戦は大胆だが危険性もあり、当初は指揮系統が統一されていない複数の軍隊の完全な協働が必要だった。デイヴィス大統領からはケンタッキー州を奪れという圧力があったものの、ブラッグはほとんど直ぐに考え直し始めた。スミスはケンタッキー州で一人で業績を上げることが個人的な栄誉に繋がることを予測し、直ぐにブラッグとの同意事項を放棄した。スミスはその意図に合うようにブラッグを欺き、表向きカンバーランド渓谷への遠征のために2個旅団を要請した[15]8月9日、スミスはブラッグに、同意事項を破りつつあり、カンバーランド渓谷を迂回して、そこには北軍の守備兵を無効化する小さな牽制部隊を残し、北へ進むつもりだと報せた。ブラッグはスミスに同意事項に敬意を払わせることができず、その注意をナッシュビルの代わりにレキシントンに向かうことに集中させ、スミスにはビューエル軍がスミス軍を追跡して、ブラッグ軍とスミス軍が合流する前に個別撃破する可能性があることを忘れるなと注意した[16]

スミスは8月13日にノックスビルから21,000名の軍隊で北に進発し、ブラッグはスミスがレキシントンに到着する直前の8月27日にチャタヌーガを出た[17]。この方面作戦の開始はロバート・E・リー将軍の北バージニア方面作戦(第二次マナサス方面作戦)での攻勢と、プライスとヴァン・ドーンによるグラントに対する作戦と期を同じくしていた。中央で指示されたわけでは無かったが、南北戦争の中でも最大の南軍による同時攻勢だった[18]

一方、ビューエル軍はチャタヌーガに向けてのその緩りとした行軍を放棄するしかなかった。南軍の動きに関する情報を得て、ナッシュビル周辺でその軍を結集させることにした。スミスとブラッグの両軍がケンタッキー州内にいるという報せは、その軍隊を北軍の確保するケンタッキー州ルイビルとオハイオ州シンシナティの両都市の間に置いておく必要があると確信させた。9月7日、ビューエルのオハイオ軍はナッシュビルを離れ、ルイビルに向かうブラッグ軍との競争を始めた[19]

ブラッグは行軍中にマンフォードビルの戦いで北軍の砦を占領することでその目標から気を逸らされた。このとき、(ルイビルで)ビューエル軍との戦いに向かうか、リッチモンドとレキシントンの占領で州内中央部の支配を得た後、シンシナティに向かうと脅威を与えているスミス軍と合流するかを再び決断する必要があった。ブラッグはスミス軍との合流を選んだ。このことで、ビューエルはルイビルに到着することができ、そこで北軍が集まって再編成し、数千の新兵で補強することができた。ビューエルはジョシュア・W・シル准将に20,000名を付けてフランクフォートに派遣し、スミスの注意を逸らせ、南軍の2つの軍隊が合流して自軍に当たらないようにすることを期待した。一方、ブラッグは自隊を離れフランクフォートでスミスに会い、10月4日に行われた南軍側知事リチャード・ホーズの就任宣誓式に出席することができた。就任宣誓式は近付きつつあるシルの師団からの砲声で中断され、その夜に予定されていた就任舞踏会は中止された[20]
対戦した戦力
北軍

北軍の主要指揮官

ドン・カルロス・ビューエル少将、北軍

ジョージ・ヘンリー・トーマス少将、北軍

アレクサンダー・マクック少将、北軍

チャールズ・C・ギルバート少将、北軍

10月1日ビューエルのオハイオ軍はジョージ・ヘンリー・トーマス少将を副司令官としてルイビルを発った(この2日前に、ビューエルはワシントンから指揮官を解任しトーマスに引き継がせるという命令を受け取ったが、トーマスが異議を唱え、方面作戦が進行中に指揮官職を受けられないと言ったので、ビューエルはそのまま指揮を続けた)。総勢55,000名だが、その多くはトーマスが「まだ訓練も施されておらず、適切な砲兵隊も備わらず、訓練を積んだ敵に対して活動的な作戦を行うには全く不向き[21]」と記述した状態で、3つの別々の道路をバーズタウンにいるブラッグの古参兵軍に向かって進軍した[22]

アレクサンダー・マクック少将の第1軍団はマックビル道路にそって左翼を進んだ。総勢13,000名はラベル・H・ルソー准将の第3師団、およびジェイムズ・S・ジャクソン准将の第10師団で構成された[23]

トマス・L・クリッテンデン少将の第2軍団は右翼のレバノン道路を進んだ。総勢20,000名はウィリアム・スーイ・スミス准将の第4師団、ホレイショ・P・ヴァン・クリーブ准将の第5師団およびトマス・J・ウッドの第6師団で構成された[24]

チャールズ・C・ギルバート少将の第3軍団は中央のスプリングフィールド・パイクを進んだ。ほんの数週間前、ギルバートは大尉だったが、以前の指揮官ウィリアム・"ブル"・ネルソン少将の殺害の後で、少将の代行と軍団指揮官に昇進していた。ギルバートの総勢22,000名も3個師団で構成された。アルビン・F・シェフ准将の第1師団、ロバート・B・ミッチェル准将の第8師団およびフィリップ・シェリダン准将の第11師団だった[25]
南軍

南軍の主要指揮官

ブラクストン・ブラッグ将軍、南軍

レオニダス・ポーク少将、南軍

ウィリアム・J・ハーディ少将、南軍


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