ペトロ・ポロシェンコ
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このときポロシェンコ自身はウクライナ最高議会議長を望んでいたとされるが、第一党であるヤヌコーヴィチの地域党がウクライナ社会党ウクライナ共産党との与党連合を結成し、社会党党首オレクサンドル・モロズは与党連合参加の見返りとして最高議会議長のポストを得たため[2]、「我らのウクライナ」ユーリヤ・ティモシェンコ・ブロックからの入閣者はなかった。2007年2月からは、それまで理事であったウクライナ国立銀行(中央銀行)の理事長をつとめることとなり[2][4]、2007年9月に行われたウクライナ最高議会選挙には出馬していない。
外相時代(2009年-2010年)2009年、ロシア・ウクライナ国際委員会会合にて

2009年10月7日、ユシチェンコ大統領によりウクライナ外務大臣に指名され[4][16] 、10月9日ウクライナ最高議会からの承認を得て任命された[17][18]。2009年10月12日には安全保障・国防評議会のメンバーに任命される[19]。ポロシェンコはウクライナのNATO加盟を支持する考えを明らかにしており、2009年12月には「政治の意思、そうするべきであるという国民の願い希望、そして担当政治家に対する国民の支持があれば、さらに政策を正しく明確に理解すれば、NATO加盟はこの1年か2年のうちに成し遂げられるものと信じている」と発言しているが、一方でNATO加盟はそれ自体が目標ではないとも述べ「我々のゴールは改革の実行と生活水準の向上であるべきだ。行動を起こしてよいかどうか誰かに許可してもらうのではなく、この国の状況を改善するためあらゆることをやるべきだと信じている」とも述べている[20]

2010年2月の大統領選挙ヴィクトル・ヤヌコーヴィチが大統領になると、ポロシェンコは2010年3月11日に外相を解任された。だがヤヌコーヴィチ大統領はポロシェンコとは今後も協力関係を維持したいとする意向を表明している[8]
経済発展・貿易相(2012年)

2012年2月末、ポロシェンコはミコラ・アザロフ内閣で新たに設立された経済発展・貿易省の大臣に指名された[21][22][23]。2012年3月9日、ヤヌコーヴィチはポロシェンコの経済発展・貿易相としての入閣を希望すると発言[24]、3月23日に正式に任命され[1]、同月、ウクライナ国立銀行理事長の職を退いた[3]
最高議会議員2014年ミュンヘン安全保障会議で。左からビタリ・クリチコ、ポロシェンコ、米国務長官ジョン・ケリーアルセニー・ヤツェニューク

2012年ウクライナ最高議会選挙ヴィーンニツァ州小選挙区に無所属で出馬したポロシェンコは70%を超える得票率で当選、ヴェルホーヴナ・ラーダ(最高議会)議員に返り咲いたが[25][26]、入閣はしなかった[27]

2013年2月中旬にはキエフ市長選への出馬をほのめかしている[28]
2014年ウクライナ大統領選挙詳細は「2014年ウクライナ大統領選挙」を参照2014年大統領選におけるポロシェンコの州別得票率。主に西部で過半数の支持を得た。

2014年ウクライナ騒乱により、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領が国外に脱出したことから、ウクライナ大統領選挙が2014年5月25日に行われることとなった。2014年3月以降行われた世論調査では、キエフの世論調査会社SOCIS社の調査で48.5%など、ティモシェンコら他の候補者を抑えて最も高い支持率を獲得している[29]。こうした中、ロシア・リペツク州にあるロシェンの工場がロシア当局により「接収」されるといった事案も発生している[6]。ポロシェンコは3月29日に正式に出馬を表明し、一方で有力候補のひとりであったビタリ・クリチコは自身の立候補を撤回しポロシェンコ支持に回ることを明らかにした[30]


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