ペストの歴史
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第3次のパンデミックで最大の被害を受けた国はインドであり、その死者は、第二次世界大戦までに1200万人以上に達したといわれる[9]。なお、アルベール・カミュによって、ペストに襲われたアルジェリアオラン市を舞台とした小説ペスト』が発表されたのは1947年のことであった。第二次世界大戦後はしばらくのあいだ流行は沈静化していたが、1960年代ベトナムでペストが大流行し、死者が年間1万人に達する年もあったといわれる。この流行は、ベトナム戦争等による社会秩序の混乱が伝染病の蔓延を促進した典型例といわれる[9]
日本での発生

ペスト菌は日本に常在しない細菌であり[5]、ペスト自体も明治以前の発生は確認されていない[43]。最初の報告は、1896年(明治29年)に横浜に入港した中国人船客で、同地の中国人病院で死亡した[44]。横浜上陸は3月29日のことで、死亡日は3月31日であった[45]

1899年(明治32年)9月、横浜沖での「亜米利加丸検疫で船倉から高熱を出している中国人船員が見つかり、横浜海港検疫所の施設に隔離して検査したところペストと判明したが、関東上陸は阻止された[46]。このとき、検疫官補だったのが野口英世である[46]。だが、その後、大小の流行が複数回あった[47]。1899年11月に最初の流行があり[39]台湾から門司港へ帰国した日本人会社員が広島で発病して死亡した。その後、半月の間に神戸市大阪市浜松市などで発病者が生じ、死者も現れた。1899年は45人のペスト患者が発生、40人が死亡した。

こうした事態の下、当局は香港でペスト菌を発見した北里柴三郎の指導によるペストの蔓延防止を開始した[46]1900年1月15日、東京市では1匹あたり5でネズミを買い上げることとし、媒介者であるネズミを徹底的に駆除することとした[48][注釈 8]1901年(明治34年)5月29日、警視庁はペスト予防のため、屋内をのぞき跣足(裸足)での歩行を禁止(庁令第41号)[49]車夫馬丁などの裸足を厳禁した[50]。新聞『日本』によれば、10月6日横浜でペスト患者が発生し、10月30日発生地域の家屋12戸を焼き払い、12月24日には東京でペスト患者が発生した。

ネズミの買い上げは横浜市でもおこなわれ、価格はのちに3銭に下げられた[42]。横浜市の場合、ネズミ買い上げは市役所の衛生課、衛生組合事務所、警察署、巡査派出所、巡査駐在所が管轄しており[42]、当時の『国民新聞』によれば1905年(明治38年)3月の時点ですでに買い上げ金総計が4万円を突破している[51]

最大の流行は1905年から1910年にかけての大阪府で、958名の患者が発生し、社会的に大きな影響を与えた[52]。この際、紡績工場での患者発生が続いたことから、ペスト流行地のインドから輸入された綿花にまぎれこんだネズミが感染源というのが通説になった[46]1914年4月には東京でペストが流行し、年末までの死者は41人であった。

1899年から1926年までの日本の発病者は2,905名で、死亡者は2,420名と報告された[53]。しかし、当時の日本政府のペスト対策は功を奏し[39]1927年昭和2年)以降は国内感染例はない[47][注釈 9]
近年の状況CDCによる汚染地域を示す地図 (1998)

世界保健機関(WHO)の報告によれば、1991年以降ヒトペストは増加傾向にあり 1996年の患者3,017人(うち死亡205人)、1997年には患者5419人(うち死亡274人)であった。ただし、WHOに報告された人のペスト患者数は、概して実際の患者数よりも少なく、実態はさらに深刻なものであった。

汚染地域とされるのは、
アフリカの山岳地帯および密林地帯

アジア大陸東南部のヒマラヤ山脈周辺ならびに熱帯森林地帯

中国モンゴル亜熱帯草原地域

アラビア半島からカスピ海北西部

北米南西部ロッキー山脈周辺

南米北西部のアンデス山脈周辺ならびに密林地帯

などである。

1992年から1995年にかけては南米のペルーで流行があった[53]。インドでも1994年にもペストが発生し、パニックが起こるほどであった。

WHOによれば、2004年から2015年までの感染者は56,734名で、死亡者数は4,651名(死亡率 8.2%)であった[53][注釈 10]。このうち86%(48,699名)は、マダガスカル(19,122名)、コンゴ民主共和国(14,175名)、タンザニア(6,448名)など、アフリカ諸国が占める[53]。マダガスカルでは2017年にも流行し、患者は2,348名で、202人が亡くなった[53]
脚注[脚注の使い方]
注釈^ トゥキュディデス『戦史』によれば、「アテナイのペスト」はペロポネソス戦争時に流行したため、アテナイでは敵のスパルタ側が貯水池に毒を投げ込んだという噂がながれたという[9]。また、古代ギリシャ最大の民主政治家として知られ、アテナイでペロポネソス戦争を主導したペリクレスもこの感染症で死亡しており、疫病は、この戦争でのアテナイの敗北およびデロス同盟の解体を招いたともいわれる。
^ 地中海沿岸の各港は、ペストが交易船を媒介として広まることがわかると、感染地からの船舶の寄港を禁止した。ヴェネツィアでは、東方から寄港する船舶を沖合の島に40日間停泊させて、その隔離期間のなかで感染の有無を確かめさせた。検疫のことを英語でquarantinというが、これはイタリア語のquarantena(40日)に由来する。
^ ユダヤ教徒に被害が少なかったのはミツワーにのっとった生活のためにキリスト教徒より衛生的であったという説がある一方、実際にはゲットーでの生活もそれほど衛生的ではなかったとの考証もある[要出典]。
^ このような「17世紀の危機」論については、大久保桂子のように、17世紀前半に本当の「危機」をかかえていたのはスペインのカスティーリャであったろうが、一方では同時代の北部ネーデルラントは未曾有の繁栄を謳歌する「オランダ黄金時代」であったし、イングランドの毛織物輸出はエリザベス朝後半の大不況期を脱して好調だったことから、ヨーロッパのあらゆる地域、また、あらゆる面において「危機」的状況にあったわけではないことを指摘する声もある[37]


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