ペストの歴史
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記録に残る歴史的な大流行としては、542年から543年にかけてユスティニアヌス1世(在位527年-565年)治下の東ローマ帝国(ビザンツ帝国)全版図で流行したペストが著名であり[6]、現代の病態分類では主として腺ペストだったと推定されている[11]東ローマ皇帝ユスティニアヌス自身も感染したため「ユスティニアヌスの疫病」「ユスティニアヌスの斑点」ないし「ユスティニアヌスのペスト(英語版)」と称される[6][11]。史家プロコピオスによれば、首都コンスタンティノープルでは連日5000人規模の感染死者が発生し、人口の4割もの人びとを失ったという[6]

ペストは、エジプトペルーシウムからパレスティナ地方へ、さらには帝都コンスタンティノポリスへと広がって多くの死者が発生し、帝国は一時機能不全に陥るほどであった。542年には旧西ローマ帝国の領域に侵入し、ブリテン島周辺には547年に、フランスへは567年に広がって、ヨーロッパ近東アジアにおいて最初の発生から約60年にわたって流行し続けたと記録されている[11]

皇帝自身は感染したものの軽症で済み、数ヶ月で回復したといわれている[6]。流行最盛期には毎日5,000人から10,000人もの死亡者が出たといわれるコンスタンティノープルでは、製粉所とパン屋が農業生産の不振により操業停止に陥ったと記録される[11]

このパンデミックは東ローマ帝国衰退の一因になったと考える見方がある[12]。一方、ペスト流行による東地中海沿岸地域の人口の急減のために「東ローマ帝国による統一ローマの再建」というユスティニアヌスの理想は挫折を余儀なくされたのに対し、アルプス山脈以北の西ヨーロッパ世界はいまだ交通網が未発達で、ゲルマン民族大移動以後の荒廃もあって自給自足経済の要素が強かったため、ペストの災禍が相対的に軽くすみ、それ以降の発展が可能になったという説も唱えられている[9]
中世の黒死病詳細は「黒死病」を参照黒死病患者. "The Chronicles of Gilles Li Muisis" (1272-1352). MS 13076-77, f. 24v.

ペストは、交易を通じてユーラシア大陸に拡大し、1095年以降、7回におよんだ十字軍遠征もいっそう交易を活発化させて、ヨーロッパでは都市が発達するようになった[6]。その際、戦利品や交易品にネズミがまぎれこんだため、都市部にペスト菌が大量に流れ込んだとみられている[6]。このネズミは近代以降に大量発生したドブネズミではなく、体色の黒いクマネズミである[13]

感染すると、2日ないし7日で発熱し、皮膚に黒紫色の斑点や腫瘍ができるところから「黒死病」(Black Death)と呼ばれ、恐れられたペストの大流行がヨーロッパで猛威をふるったのは1347年から1349年にかけてのことであった[13]。しかし、ペスト以外にも、幾種類もの感染症が存在したともいわれている[13]

カナダ出身の歴史家のウィリアム・ハーディー・マクニールは、「黒死病」と呼ばれるペストは、中国雲南省地方に侵攻した軍により、中国の雲南省?ビルマから拡がったか、あるいは満州?モンゴル高原の草原に生息する穴居性齧歯類が感染源であろうと推測している[14]。しかし、歴史家ウィンストン・ブラックによれば、2000年代から始まった当時のペスト犠牲者の人骨のDNA研究やペスト菌の遺伝子分析の結果から考えると中国起源説の可能性は低く、おそらく中央アジアが起源であろうという[15]。現在のところ、中央アジア起源説と中国起源説(雲南?ビルマあるいは満州?モンゴル高原)が有力である[16]。ただし、科学史家村上陽一郎によって中東起源説も提起されている[17]
中国での流行

ペストは、元朝末期にあたる1320年頃から1330年頃にかけての中国で大流行した。1200年から1393年までの間の中国の人口が半減したことについて、伝統的な中国の編年史はモンゴル人の蛮行を強調しようとするが、上述のマクニールは、これをよく説明し得るのは蛮行などではなく、むしろペストの蔓延であったと指摘している[14]。彼によれば、「1331年河北省で疫病が発生し人口の9割が死んだ」という記録があることから、早ければ1331年に中国でペストの流行が始まった可能性があるという。また、1353年から1354年にかけて中国内の8か所の遠く離れた別々の場所(河北、山西省湖北省江西省湖南省広東省広西省綏遠など)で流行し、一部地域では住民の3分の2が死亡した[14]

黒死病が14世紀のヨーロッパ全体に拡大したのは、モンゴル帝国によってユーラシア大陸の東西を結ぶ交易が盛んになったことが背景になっている。当時、ヴェネツィアジェノヴァピサなどの北イタリア諸都市は、南ドイツ毛織物スラヴ人奴隷などを対価とし、アジアの香辛料絹織物宝石などの取引で富を獲得していた。こうしたイスラームとヨーロッパの交易の中心となっていたのは、インド洋紅海地中海を結ぶエジプトアレクサンドリアであり、当時はマムルーク朝が支配しており、ヨーロッパへ上陸する前後にはイスラム世界でも黒死病が猛威をふるった。
中央アジアでの流行

中央アジアでの流行は、現地に残された記録が乏しいため外部の観察者による記録に頼るところが大きい。一例を挙げれば、あるアラブ人が書いた報告書によると、1347年にペストがクリミア半島に上陸する前にユーラシア草原西部に位置するウズベクのある村々は流行によって完全に無人化したという[14]

近年、中央アジアの黒海周辺において、黒海の北に位置するロシアのライシェボで14世紀にパンデミックを引き起こしたペスト菌の祖先が発見され、黒海の東方に位置するキルギスイシク・クル湖でもこの時期の痕跡が確認されており、中央アジアを発生源として世界に拡散したとする説が唱えられている[18]。イシク・クル湖一帯には当時ネストリウス派キリスト教の信者が多く住んでおり、彼らの墓碑の解明によってペストの断続的な蔓延が立証されている[18]。この地での自然宿主は齧歯類のマーモットと考えられている[18]

中国から中東、東欧にまで版図を拡大したモンゴル帝国によって、シルクロードの大部分がモンゴルの支配下に入った[18]


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