ペストの歴史
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天然痘麻疹は西から東に運ばれ、ペストは東から西へともたらされた[6]。こうした感染症に対し、人びとは免疫をもたなかったので、東西でパンデミックが生じ、多くの人命が失われた[6]
「アテナイのペスト」

ペロポネソス戦争のさなかの紀元前429年篭城戦術を用いてスパルタ軍と対峙していたギリシャ最大のポリスアテナイ(アテネ)を感染症の流行が襲い、多数の犠牲者を出したことがトゥキュディデスの『戦史』第2巻に記載されている[7]。この疫病は、発熱、発疹を症状とする致死性の疾患で、かつて「アテナイのペスト」と呼ばれていた[8]。しかし、記録された症状だけでは、他のさまざまな感染症の可能性をも示しており[7]、今日では、具体的な疾病名の確定は不可能とされ[7]、むしろ痘瘡天然痘)または発疹チフス(あるいはそれらの同時流行)の可能性が高いとみられている。トゥキュディデス自身もこの疫病に罹り、回復したが、その症状は、激しい頭痛、目の炎症、喀血、咳、くしゃみ、胸痛、胃けいれん、嘔吐、下痢、高度の発熱というものであった[注釈 1]。この結果からも、ペスト説はいまや完全に否定されたといってよい。
アントニヌスのペスト詳細は「en:Antonine Plague」を参照ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス

ペストは、上述のように、シルクロード交易によって東方から西方に伝わった感染症で、すでに1世紀?2世紀、エジプトからシリアにかけて、大流行したとの記録もある[5]ローマ帝国においても、その最盛期にあたる五賢帝時代に300万人を超える死者を出している[6]。それが、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの治世(165年?180年)に発生した流行で、「感染した人の25%から33%が死亡」し、「350万から700万人ほどの人々が死んだ」とされる[10]。これは、皇帝の名を採り、「アントニヌスのペスト(英語版)」と呼ばれる。流行は、その後も断続的につづいたと考えられる[6]
ユスティニアヌスのペスト詳細は「en:Plague of Justinian」を参照ユスティニアヌス1世(483-565)

記録に残る歴史的な大流行としては、542年から543年にかけてユスティニアヌス1世(在位527年-565年)治下の東ローマ帝国(ビザンツ帝国)全版図で流行したペストが著名であり[6]、現代の病態分類では主として腺ペストだったと推定されている[11]東ローマ皇帝ユスティニアヌス自身も感染したため「ユスティニアヌスの疫病」「ユスティニアヌスの斑点」ないし「ユスティニアヌスのペスト(英語版)」と称される[6][11]。史家プロコピオスによれば、首都コンスタンティノープルでは連日5000人規模の感染死者が発生し、人口の4割もの人びとを失ったという[6]

ペストは、エジプトペルーシウムからパレスティナ地方へ、さらには帝都コンスタンティノポリスへと広がって多くの死者が発生し、帝国は一時機能不全に陥るほどであった。542年には旧西ローマ帝国の領域に侵入し、ブリテン島周辺には547年に、フランスへは567年に広がって、ヨーロッパ近東アジアにおいて最初の発生から約60年にわたって流行し続けたと記録されている[11]

皇帝自身は感染したものの軽症で済み、数ヶ月で回復したといわれている[6]。流行最盛期には毎日5,000人から10,000人もの死亡者が出たといわれるコンスタンティノープルでは、製粉所とパン屋が農業生産の不振により操業停止に陥ったと記録される[11]

このパンデミックは東ローマ帝国衰退の一因になったと考える見方がある[12]。一方、ペスト流行による東地中海沿岸地域の人口の急減のために「東ローマ帝国による統一ローマの再建」というユスティニアヌスの理想は挫折を余儀なくされたのに対し、アルプス山脈以北の西ヨーロッパ世界はいまだ交通網が未発達で、ゲルマン民族大移動以後の荒廃もあって自給自足経済の要素が強かったため、ペストの災禍が相対的に軽くすみ、それ以降の発展が可能になったという説も唱えられている[9]
中世の黒死病詳細は「黒死病」を参照黒死病患者. "The Chronicles of Gilles Li Muisis" (1272-1352). MS 13076-77, f. 24v.

ペストは、交易を通じてユーラシア大陸に拡大し、1095年以降、7回におよんだ十字軍遠征もいっそう交易を活発化させて、ヨーロッパでは都市が発達するようになった[6]。その際、戦利品や交易品にネズミがまぎれこんだため、都市部にペスト菌が大量に流れ込んだとみられている[6]。このネズミは近代以降に大量発生したドブネズミではなく、体色の黒いクマネズミである[13]

感染すると、2日ないし7日で発熱し、皮膚に黒紫色の斑点や腫瘍ができるところから「黒死病」(Black Death)と呼ばれ、恐れられたペストの大流行がヨーロッパで猛威をふるったのは1347年から1349年にかけてのことであった[13]。しかし、ペスト以外にも、幾種類もの感染症が存在したともいわれている[13]

カナダ出身の歴史家のウィリアム・ハーディー・マクニールは、「黒死病」と呼ばれるペストは、中国雲南省地方に侵攻した軍により、中国の雲南省?ビルマから拡がったか、あるいは満州?モンゴル高原の草原に生息する穴居性齧歯類が感染源であろうと推測している[14]。しかし、歴史家ウィンストン・ブラックによれば、2000年代から始まった当時のペスト犠牲者の人骨のDNA研究やペスト菌の遺伝子分析の結果から考えると中国起源説の可能性は低く、おそらく中央アジアが起源であろうという[15]。現在のところ、中央アジア起源説と中国起源説(雲南?ビルマあるいは満州?モンゴル高原)が有力である[16]。ただし、科学史家村上陽一郎によって中東起源説も提起されている[17]
中国での流行


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