感染すると、2日ないし7日で発熱し、皮膚に黒紫色の斑点や腫瘍ができるところから「黒死病」(Black Death)と呼ばれ、恐れられたペストの大流行がヨーロッパで猛威をふるったのは1347年から1349年にかけてのことであった[13]。しかし、ペスト以外にも、幾種類もの感染症が存在したともいわれている[13]。
カナダ出身の歴史家のウィリアム・ハーディー・マクニールは、「黒死病」と呼ばれるペストは、中国の雲南省地方に侵攻した元軍により、中国の雲南省?ビルマから拡がったか、あるいは満州?モンゴル高原の草原に生息する穴居性齧歯類が感染源であろうと推測している[14]。しかし、歴史家ウィンストン・ブラックによれば、2000年代から始まった当時のペスト犠牲者の人骨のDNA研究やペスト菌の遺伝子分析の結果から考えると中国起源説の可能性は低く、おそらく中央アジアが起源であろうという[15]。現在のところ、中央アジア起源説と中国起源説(雲南?ビルマあるいは満州?モンゴル高原)が有力である[16]。ただし、科学史家の村上陽一郎によって中東起源説も提起されている[17]。 ペストは、元朝末期にあたる1320年頃から1330年頃にかけての中国で大流行した。1200年から1393年までの間の中国の人口が半減したことについて、伝統的な中国の編年史はモンゴル人の蛮行を強調しようとするが、上述のマクニールは、これをよく説明し得るのは蛮行などではなく、むしろペストの蔓延であったと指摘している[14]。彼によれば、「1331年に河北省で疫病が発生し人口の9割が死んだ」という記録があることから、早ければ1331年に中国でペストの流行が始まった可能性があるという。また、1353年から1354年にかけて中国内の8か所の遠く離れた別々の場所(河北、山西省、湖北省、江西省、湖南省、広東省、広西省、綏遠など)で流行し、一部地域では住民の3分の2が死亡した[14]。 黒死病が14世紀のヨーロッパ全体に拡大したのは、モンゴル帝国によってユーラシア大陸の東西を結ぶ交易が盛んになったことが背景になっている。当時、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサなどの北イタリア諸都市は、南ドイツの銀、毛織物、スラヴ人奴隷などを対価とし、アジアの香辛料、絹織物、宝石などの取引で富を獲得していた。こうしたイスラームとヨーロッパの交易の中心となっていたのは、インド洋、紅海、地中海を結ぶエジプトのアレクサンドリアであり、当時はマムルーク朝が支配しており、ヨーロッパへ上陸する前後にはイスラム世界でも黒死病が猛威をふるった。 中央アジアでの流行は、現地に残された記録が乏しいため外部の観察者による記録に頼るところが大きい。一例を挙げれば、あるアラブ人が書いた報告書によると、1347年にペストがクリミア半島に上陸する前にユーラシア草原西部に位置するウズベクのある村々は流行によって完全に無人化したという[14]。 近年、中央アジアの黒海周辺において、黒海の北に位置するロシアのライシェボで14世紀にパンデミックを引き起こしたペスト菌の祖先が発見され、黒海の東方に位置するキルギスのイシク・クル湖でもこの時期の痕跡が確認されており、中央アジアを発生源として世界に拡散したとする説が唱えられている[18]。イシク・クル湖一帯には当時ネストリウス派キリスト教の信者が多く住んでおり、彼らの墓碑の解明によってペストの断続的な蔓延が立証されている[18]。この地での自然宿主は齧歯類のマーモットと考えられている[18]。 中国から中東、東欧にまで版図を拡大したモンゴル帝国によって、シルクロードの大部分がモンゴルの支配下に入った[18]。そして、ジェノヴァ共和国の植民地だった黒海周辺国とイタリア商人との交易や、ジェノヴァの艦隊、モンゴル帝国による西域侵攻などが欧州への拡散を助長したと考えられる。中央アジアの風土病としてそれほど強い毒性ではなかったペストが、ユーラシアを横断して感染を拡大させていく過程で毒性の強いものに変異したことは充分に考えられる。 1347年10月、ペストは、中央アジアからクリミア半島を経由してシチリア島に上陸し、またたく間に内陸部へと拡大した[18][19]。コンスタンティノープルから出港した12隻のガレー船の船団がシチリアの港町メッシーナに到着したのが発端といわれる[20]。ヨーロッパに運ばれた毛皮についていたノミに寄生し、そのノミによってクマネズミが感染し、船の積み荷などとともに、海路に沿ってペスト菌が広がったのではないかと推定されている[20]。ペストはまず、当時の交易路に沿ってジェノヴァやピサ、ヴェネツィア、ローマ、サルディーニャ島、コルス島、マルセイユへと広がった[13][18][20][注釈 2]。1348年にはアルプス以北のヨーロッパにも伝わり、1349年にはスカンディナヴィア半島やイベリア半島へも広がった[21]。14世紀末まで3回の大流行と多くの小流行を繰り返し、猛威を振るった[22]。正確な統計はないが全世界で8,500万人、当時のヨーロッパ人口の3分の1から3分の2にあたる約2,000万から3、000万人前後、イギリスやフランスでは過半数が死亡したと推定されている[22]。場所によっては60パーセントの人が亡くなった地域もあった[22][23]。 この疫病がヨーロッパに到達した数か月ののち、ローマ教皇クレメンス6世は、当時のカトリック教会の総本山のあったアヴィニョンより逃亡したが、そのいっぽうで教皇の侍医長であった外科医ギー・ド・ショーリアックはアヴィニョンにとどまる勇気を示している[23]。
中国での流行
中央アジアでの流行
ヨーロッパへの上陸ヨーロッパにおけるペストの伝播