紀元前321年、ペイトンはペルディッカスのエジプト遠征に参加したが、ペルディッカスがナイル渡河作戦に失敗したため彼を見限り、セレウコス、アンティゲネスらと共にペルディッカスを暗殺した[10]。彼らはエジプト太守プトレマイオスと交渉し、プトレマイオスはペイトンとアリダイオスを新摂政に推したが、ペルディッカス暗殺と同年に開かれたトリパラディソスの軍会でエウリュディケの反対を受け、それは成らなかった(結局摂政位はアンティパトロスのものになった)[7]。この時、ペイトンはメディア太守位を維持した[11][7]。その後、彼は高地太守領での勢力拡大を目論み、弟のエウダモスを太守に据えるためにパルティア太守ピリッポスを殺害したが、紀元前317年にピリッポスの二の舞になることを恐れたペウケスタス率いる東方太守連合軍(ペルシス太守ペウケスタス、メソポタミア太守アンフィマコス、カルマニア太守トレポレモス、アラコシア太守シビュルティオス、アレイア・ドランギアナ太守スタサンドロス、ガンダーラ太守ペイトン)に敗退し、ペイトンはセレウコスの許へと逃げた[12]。そして、ペイトンはセレウコスと共にアンティゴノスと手を結び、エウメネスおよびペウケスタスらと戦った。この戦争においてペイトンはたびたび大きな指揮権を託されるなどアンティゴノスの副将のような地位にあり[13]、パラエタケネ、ガビエネの両会戦ではともに左翼の騎兵部隊を指揮した[14]。
エウメネスの死後、ペイトンは高地アジアの支配という野心を露わにしてアンティゴノスに対する戦いを始めようとしたため、警戒心を抱いたアンティゴノスによって捕らえられて処刑された(紀元前316年)[15]。
註^ アッリアノス, 『アレクサンドロス大王東征記』, VI. 28
^ アッリアノス, 『インド誌』, 18
^ アッリアノス, 『アレクサンドロス大王東征記』, VII. 26
^ プルタルコス, 「アレクサンドロス」, 76
^ ディオドロス, XVIII. 3
^ ユスティヌス, XIII. 4
^ a b c フォティオス, cod. 92
^ クルティウス, x. 10. 4
^ ディオドロス, XVIII. 4, 7
^ ibid, XVIII. 36
^ ディオドロス, XVIII. 39
^ ディオドロス, XIX. 14
^ ibid, XIX. 19, 26
^ ibid, XIX. 29, 30, 40, 43
^ ibid, XIX. 46
参考文献
アッリアノス『アレクサンドロス大王東征記』 大牟田章訳、岩波文庫(上下)、2001年
クルティウス・ルフス『アレクサンドロス大王伝』 谷栄一郎・上村健二訳、京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2003年
ディオドロス『アレクサンドロス大王の歴史』 森谷公俊 訳註・解説、河出書房新社、2023年。完訳版
プルタルコス『世界古典文学全集 プルタルコス 英雄伝』 村川堅太郎編、筑摩書房、初版1966年
『プルタルコス 新訳 アレクサンドロス大王伝』 森谷公俊訳註、河出書房新社、2017年
ポンペイウス・トログス / ユスティヌス抄録『地中海世界史』 合阪學訳、京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、1998年
外部リンク
⇒ディオドロスの『歴史叢書』の英訳サイト
⇒フォティオスのBibliothecaの英訳サイト