ベーラ3世_(ハンガリー王)
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ベーラ3世の時代には筆写による記録が推進され、14世紀以降のハンガリーの年代記ではベーラは宮廷裁判所の確立に大きな役割を果たしたことが述べられている。また、ベーラの治世にエステルゴムに建てられた宮殿は、中央ヨーロッパにおける最初期のゴシック建設の一つに挙げられている。
生涯
幼少期ゲーザ2世の印章

ベーラ3世はハンガリー王ゲーザ2世キエフエフロシニヤ・ムスチスラヴナの次男として生まれるが[1][2]、彼の誕生日についての記録は残されていない[1][2]。後世に実施された遺骨の調査によって没時の年齢が49歳前後であることが明らかになり、1148年頃に生まれたと推定されている[2]

ベーラ3世と同時代の歴史家ヨハネス・キンナモスの「ゲーザ2世は生きている間に領土を分配した」[3]という記述は、ゲーザ2世が幼少期のベーラに領土を授与したことを示している[4]。ベーラに与えられた領土については諸説分かれており、キンナモスの「ベーラの相続地」に関する記述から数十年にわたってハンガリー王国の宗主権を受け入れていたシベニクスプリトトロギルを含むダルマチア中央部はベーラの世襲地に確実に含まれていたと考えられている[5][6][7][8]。歴史家のFerenc MakkとGyula Moravcsik はベーラがクロアチアを授与されたという点で意見が一致しているが[9]シルミウムが領地に含まれていたか、父の死後に相続したかについては研究者の間で意見が分かれている[6][8][10][11]。また、Warren Treadgoldはベーラの世襲地にはボスニアも含まれていたと主張している[11]。ベーラがゲーザ2世から公国を授与された正確な日付は判明していないが、Makkは1161年頃に公国を与えられたと考えている[6]

1162年5月31日にゲーザ2世が没した後、ゲーザ2世の長男イシュトヴァーン3世がハンガリー王位を継承した[12]。イシュトヴァーン3世は即位して間もなく、反乱を起こした叔父のラースローイシュトヴァーンによってハンガリーを追放される[13][14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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