ベンジャミン・ディズレーリ
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これは総選挙の敗北を直接の事由として首相が退任した最初の事例であり、議会制民主主義の確立のうえで重要な先例となった。

以降5年ほどは野党党首に甘んじ、グラッドストン政権の弱腰外交政策を批判した。その間、小説『ロゼアー(英語版)』を出版してベストセラーになっている。

1874年の解散総選挙(英語版)で保守党が半数を超える議席を獲得した結果、首相職に返り咲いた。安定多数政権だった第二次ディズレーリ内閣は強力な政権運営が可能だった。そのため、労働者住宅改善法制定による労働者の住宅事情の改善、公衆衛生法制定による都市の衛生、強制立ち退きされた小作人への補償制度の制定、労働組合の強化など「トーリー・デモクラシー」と呼ばれる多くの改革を行う事が出来た。外交面では積極的な帝国主義政策を推進し、1875年にはスエズ運河を買収してエジプトの半植民地化に先鞭をつけた。また1876年には"Empress"(女帝、皇后)の称号を欲するヴィクトリア女王の意を汲んで、彼女をインド女帝に即位させた。また1877年から翌年にかけての露土戦争ではロシア帝国地中海進出を防ぐため、国内の反オスマン=トルコ帝国世論を抑えて親トルコ的中立の立場をとった。同戦争の戦後処理会議ベルリン会議においてロシア衛星国ブルガリア公国を分割させてロシアの同海進出を防ぎ、かつトルコからキプロス島の割譲を受け、地中海におけるイギリスの覇権を確固たるものとした。南部アフリカでは1877年にトランスヴァール共和国を併合し、ついで1879年にはズールー族との戦争に勝利した。1879年には中央アジアへの侵攻を強めるロシアの先手を打って第二次アフガニスタン戦争を開始して勝利した。

グラッドストンとは対照的にヴィクトリア女王と非常に親密な関係にあり、1876年には女王からビーコンズフィールド伯爵の爵位を与えられた。

1880年の総選挙(英語版)で自由党が勝利した結果、グラッドストンが首相に返り咲き、ディズレーリは退任。退任後に小説『エンディミオン(英語版)』を出版したが、1881年3月から体調を悪化させ、4月19日にロンドンで病死した。

ディズレーリの死後、保守党は貴族院をソールズベリー侯爵が、庶民院をサー・スタッフォード・ノースコート准男爵が指導していく。
生涯
出生と出自

1804年12月21日、イギリス首都ロンドンに生まれた[4][5]。祖父の名前と同じ「ベンジャミン」と名付けられた[6]父アイザック・デ・イズレーリ

父はイタリア系セファルディムユダヤ人の作家アイザック・デ・イズレーリ(英語版)。母は同じくセファルディム系ユダヤ人のマリア(旧姓バーセイビー)[4]。父母ともに裕福であり[4]、貴公子的な生活環境の中で育った[7]。姉にサラがいる。また後に弟としてナフタライ、ラルフ、ジェームズが生まれている[4][注釈 1]

祖父ベンジャミン(英語版)は1730年に教皇領フェラーラ近郊のチェントに生まれたが、1748年にイギリスへ移住し[8][9]、結婚を通じて株式仲買人として成功し、1816年に死去した際には3万5000ポンドという遺産を残した[10]

ディズレーリ本人によるとディズレーリ家の先祖はもともとスペインのユダヤ人だったが、1492年にカスティーリャ女王イサベル1世アラゴンフェルナンド2世による異端審問・ユダヤ人追放の勅令(英語版)によって国を追われ、イタリアのヴェネツィアに移住し、のちディズレーリと改名し、商人として成功した[11][12]。そして18世紀中頃にディズレーリの曾祖父アイザックが長男をヴェネツィアに残して銀行業を継がせ、次男ベンジャミン(祖父)をイギリスへ移住させた[11]


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