ベンジャミン・チャーチ
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チャーチは最終的に、当時の伝統的な軍隊戦術がうまく行かないときに、インディアンの徴兵を認められた。中立あるいは元の敵対的だったインディアンを従属させ、自隊に加わるよう説得し、非正規兵として巧みに働かせた。これらインディアン兵士の中には、戦争の前にキリスト教徒に改宗する者もいた。彼らは祈るインディアンと呼ばれた。教会員に組み込まれた後、森や湿地でインディアンの跡を付け、その宿営地に対する襲撃や、待ち伏せを効果的に行った。
大湿地の戦いフィリップ王の肖像、ポール・リビア画、ベンジャミン・チャーチの1772年に出版された『フィリップ王戦争の興味ある歴史』の挿画より

チャーチは大湿地の戦いのとき、戦闘を指揮する役割だったときに負傷した。この戦闘で推計300名のナラガンセット族が殺された[5]

この戦闘後、チャーチ達はナラガンセット族を追ってその集落に行けると期待した。インディアンはチャーチ達を敵の領土で食料も無く残したまま逃げて行った。その遠征は生き残りのために戦わねばならず、最後は飢えるよりも自分たちの馬を食べることまで強いられた[6]

1676年8月12日、チャーチの中隊の作戦で、チャーチの同盟インディアンであるジョン・アルダーマンがフィリップ王(メタコメットとも呼ばれた)を殺した後に、戦争は間もなく終わった。チャーチはフィリップの遺体を調べ、「悲しげで、偉大で、裸の汚い野獣」と言ったと伝えられている。その後フィリップは当時のイングランドの反逆者に対する罰の標準的な方法として、遺体を損傷され4つ裂きにされた。
ウィリアム王戦争

ウィリアム王戦争のとき(1688年-1697年)、チャールズはアカディア(現在のメイン州の大半を含んでいた)のアカディア人やインディアンに対して4度ニューイングランドの襲撃隊を率いて行った。1689年9月21日、アカディアに対する最初の遠征では、少佐に昇進していたチャーチと250名の部隊がディアリングオークスの戦い(ブラケットの森の戦いとも呼ばれる)で、イングランド人開拓者の集団を守った。イングランド人はメインのファルマス(現在のメイン州ポートランド)で自立を図っていた。インディアンは兵士21人を殺したが、チャーチ隊が防御に成功して、インディアンは退却した[7]。その後、少数のイングランド人開拓者を残したまま、ボストンに戻った。翌1690年春、アカディアの指導者ジャン=ヴァンサン・ダバディ・ド・サンカスタンが率いた総勢400名のフランス人とインディアンがファルマスに戻って来て、ロイヤル砦の戦いでイングランド人開拓者全員を殺した。チャーチはその年の夏に村に戻り、遺体を埋葬した[8]ポール・リビア制作によるベンジャミン・チャーチの肖像版画の複製。イェール大学画廊蔵。この肖像は実際にはイングランド人詩人チャールズ・チャーチルのものだったが、流用された[9]

チャーチの2回目の遠征は1年後の1690年9月11日、300名を率いてカスコ湾に行った。その任務はインディアンに占領されていたイングランド人のペジェプスコット砦(現在のメイン州ブランズウィック)を解放することだった[10]。アンドロスコギン川を遡り、ペジェプスコット砦まで行った[11]。そこから40マイル (64 km) 上流のリバーモアフォールズまで行き、インディアンの集落を攻撃した[12]。チャーチの部隊はインディアンが退却しているときに3人ないし4人を撃ち殺した。チャーチは、イングランド人5人がウィグワム(インディアンの小屋)の中で捉われていたのを発見した。チャーチはインディアン6人ないし7人を殺し、9人を捕虜にした[13]。その数日後、インディアンが報復のためにパープーダック・ポイント沿いのケープエリザベスでチャーチ隊を攻撃し、7名を殺し、24名を負傷させた[14]。9月26日、チャーチ隊はニューハンプシャーポーツマスに戻った。

チャーチの3回目の遠征は1692年、450名の部隊でペノブスコット(現在のメイン州インディアンアイランド)を襲撃した[15]。その後タコノック(現在のウィンスロー)を襲撃した[16]


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