ベンガル・スルターン朝
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こうして、前期イリヤース・シャーヒー朝に代わり、新たにラージャ・ガネーシャを祖とするラージャ・ガネーシャ朝が成立した[4][5]
ラージャ・ガネーシャ朝ラージャ・ガネーシャ

1414年、創始者ラージャ・ガネーシャは王位を宣し、新たにラージャ・ガネーシャ朝を樹立したが、その継承をめぐり宗教的な問題が発生した[4]

というのは、ゴール朝の侵入以来イスラーム教が根付いて長いベンガルに、ヒンドゥー教徒がベンガルの王となることをムスリムの有力者たちが強く反対していたからだった[4]。一方、ラージャ・ガネーシャも自らのヒンドゥー教の信仰を捨てて改宗する気はなく、両者はラージャ・ガネーシャの死後、その後継者がイスラーム教に改宗することで合意した[4]

ラージャ・ガネーシャの治世は4年と短かったが、その間に隣国のジャウンプル・スルターン朝と領土を争い、ヒンドゥー教の寺院を手厚く保護した。

1418年、ラージャ・ガネーシャの死後、その息子ジャラールッディーン・ムハンマド・シャーは父王の約束通りヒンドゥー教からイスラーム教に改宗した[4]。ジャラールッディーン・ムハンマド・シャーの名はその際に改名したものである[4]

ムハンマド・シャーは改宗後、熱烈なイスラーム教徒となり、それを証明するため「アラーのカリフ」自称した[1]。ムハンマド・シャーはその公平さで知られ、軍司令官や裁判長にヒンドゥーを割り当てるなど、ムスリムとヒンドゥー教徒を差別なく平等に扱った[4]

また、彼の代にベンガル王国の領土は広まり、父王と同様にジャウンプルと争い、チッタゴンやファリードプルなどを得て、南ビハールまで版図とした[4]。彼は明に使者を送り朝貢し、マムルーク朝と使節を交換するなど、国際的にも広い視野を持っていたことで知られる[5][4]

1433年、ムハンマド・シャーの死後、その後を継いだ息子シャムスッディーン・アフマド・シャーは正義感の強さと慈悲の深さで知られたが、1436年に家臣の一人によって暗殺された[7]

こうして、ラージャ・ガネーシャ朝は3代21年という短期間で滅んでしまった。
後期イリヤース・シャーヒー朝

1436年、ラージャ・ガネーシャ朝が滅亡したのち、ベンガル王国は混乱したが、翌1437年にナーシルッディーン・マフムード・シャーがイリヤース・シャーヒー朝を再興した(後期イリヤース・シャーヒー朝)[8]

しかし、1434年にオリッサでは東ガンガ朝に代わり新たにガジャパティ朝が成立し、それがベンガル王国の脅威となった。ベンガルはガジャパティ朝にオリッサに有する領土、西ベンガルの大部分を奪われ[8]、ガンジス川流域にまでに侵入された。また、ビルマアラカン王国チッタゴン方面に進出し、1459年にはチッタゴン港も占領された[8]

その息子ルクヌッディーン・バールバク・シャーの治世も同様に、ガジャパティ朝が南ベンガルに侵入し、その対応に追われた。だが、内政面では、ルクヌッディーン・バルバク・シャーは宗教的には宥和政策をとり、文芸活動を支援し、その業績をたたえた碑文がベンガル各地で見られる[8]

しかし、1481年にその死後に継いだ王シャムスッディーン・ユーフス・シャー、シカンダル・シャー2世は相次いで早世し、1487年に最後の王ジャラールッディーン・ファテー・シャーはアビシニア(エチオピア)人奴隷出身の家臣によって殺された[8]
フサイン・シャーヒー朝

1493年、アビシニア人奴隷の王朝(シャーフザーダ朝)は王位をめぐる争いにより滅亡し、同年その宰相アラー・ウッディーン・フサイン・シャーが貴族に選出されて新たな王となり、フサイン・シャーヒー朝を創始した[8][9]。フサイン・シャー自身はベンガルのムルシダーバード出身だったが、その親はトルキスタンを経由してベンガルに来たメッカ出身のアラブ人だった[10][1]

1479年、隣国のジャウンプル・スルターン朝がデリー・スルターン朝ローディー朝に滅ぼされたのち、ベンガル王国にもその侵略が及ぶと彼は数次にわたって戦い、1495年にローディー朝と領土の現状維持の協定を結んだ[10]。また、フサイン・シャーはオリッサのガジャパティ朝とも領土を争い、その治世を通して戦い続けた。

フサイン・シャーは内政面では成功をおさめ、政治を長年支配してきたアビシニア人を排斥し、ヒンドゥー教徒とムスリムを平等に扱い、ヒンドゥー教徒も政府の重役に任じた[10]。また、その治世は文化が栄え、ベンガル語やベンガル文字が広く使われ、多くの詩人や学者が輩出された[10]。そのため、彼の治世は中世ベンガルの黄金期と評されている[8]

1519年にフサイン・シャーの死後、新たな王となったナーシルッディーン・ヌスラト・シャーは近隣諸国への失敗はしたものの、公共事業を進め、モスクや聖廟を建設し、交易で国家は繁栄した[10]

しかし、1526年にローディー朝がムガル帝国との戦いで滅亡すると、ヌスラト・シャーはイブラーヒーム・ローディーの王弟マフムード・ローディーを支援した。その後、1529年5月6日にムガル帝国の軍とガーガラ川で戦い大敗した(ガーガラ川の戦い)。

1532年、ヌスラト・シャーは暗殺され[11]、あとを継いだその息子アラー・ウッディーン・フィールーズ・シャー2世も同年に死亡し、その叔父ギヤースッディーン・ムハンマド・シャーが王となった。

しかし、ベンガル・スルターン朝はムガル帝国とアフガン系スール族の族長シェール・ハーンとの争いに挟まれ、1538年にムハンマド・シャーはそうした混乱の中で死亡し、フサイン・シャーヒー朝は滅亡した[8]
ベンガル・スルターン朝の滅亡

1532年以降、ベンガル王国の領土は徐々にシェール・ハーンの勢力が進出し、1538年のムハンマド・シャーの死をもって完全に王国はその支配下に置かれた[12]

1539年、シェール・ハーンはシェール・シャーとして即位し、スール朝を創始したが、1545年に事故死した。その後、1554年その息子イスラーム・シャーが死亡すると、3人の王ムハンマド・アーディル・シャー、イブラーヒーム・シャーシカンダル・シャーが争い内紛に陥り、1555年にスール朝はムガル帝国に滅ぼされた。


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