ベルン(標準ドイツ語:Bern [b?rn] ( 音声ファイル)、スイスドイツ語ベルン方言:Barn [b?a?rn](ベァールン)、フランス語:Berne [b??n](ベルヌ)[2]、イタリア語:Berna [?b?rna](ベルナ)、ロマンシュ語:Berna [?b?rn?] ( 音声ファイル)(ベルナ)、英語:Bern、Berne [b?rn]、[b?rn] (バーン、ベアン))は、スイス連邦の首都[注釈 1]。
ベルン州の州都でもある。人口は140,567人(2015年)[1]で、チューリッヒ、ジュネーヴ、バーゼルに次ぐ4番目の規模の都市である。「ベルン」の語源は伝承によれば熊であるとされ、熊が市の紋章にもなっている。スイス連邦議会議事堂の所在地であるほか、万国郵便連合などの国際機関も置かれている。ドイツ語圏に属する。
歴史ベルン大聖堂
1191年、街はツェーリンゲン大公のベルトルト5世によってアーレ川沿いに創設された。伝承では市名は熊(独: Bar)に由来し、公爵が殺した熊に因んで名づけられたとされる。しかし、学問的にはイタリアのヴェローナ(Verona)に由来すると説明されることが多い[3]。 ベルトルト5世が世継ぎの無いまま亡くなり、ツェーリンゲン家が断絶した後の1218年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世によって、あるいは1274年 ルドルフ・フォン・ハプスブルクによって街は帝国自由都市となり、積極的に周辺領域を購入して都市国家を形成してゆき、16世紀には13000km2(今日のスイスの約?)の面積を占めるまでになった。中世における重要な産業は皮なめし業であり、晩期の人口は約5000人を数えた[4]。
1339年、西スイス貴族層の反発を「ラウペンの戦」での勝利で退け、1353年、初期のスイス連邦に加入し、新しい国家の主導的なメンバーとなった。1415年に他の小さな領地と共にアールガウに、1536年にヴォーに侵攻し、それによってアルプス以北で最も大きな都市国家となった。1798年のフランス革命中は、フランス軍によって占領され、この時にほとんどの領土を奪われた。1831年、街はベルン州の州都となり、1848年にスイス連邦の首都となった。
街はアーレ川によって形成された半島の西の境の方向に成長していった。1191年から1256年までの間、時計塔(Zytglogge)が、市の西境を表していた。1345年までは、牢獄塔(Kafigturm)が西境の役目を引き継ぎ、その後1622年までクリストフフェル塔(Christoffelturm)がその役目を引き継いだ。三十年戦争の間、大シャンツェ、小シャンツェと呼ばれる2つの新しい城壁が半島地域全体を防御するために建てられた。城壁による防御によって、19世紀に至るまで市街は順調に成長した。
社会主義者による第一インターナショナル、第二インターナショナルの数多くの会議が、特にスイスが中立を保った第一次世界大戦の間に、当地で開かれた。
地理アーレ川とベルン
国土の中央からやや西寄り、ベルナーアルプスの20km北方に位置する。市の周囲は、氷期の氷河によって形成された。アーレ川が形作る半島の小高い丘が市の発祥地であるが、19世紀以降は、多くの橋が建設され、市域は川を越えて拡大した。市域は平坦ではなく、かなりの高低差がある。市の面積の20.2%は農業用地、33.5%は森林である。
近隣の都市として、約80キロ南西にローザンヌ、95キロ北東にチューリヒ、65キロ北にバーゼルが位置している。 2015年12月31日時点での人口は140,567人[1]。2008年の統計では、人口は129,265人であったが、このうち21.7%は外国籍である。言語別には、 ケッペンの気候区分では西岸海洋性気候(Cfb)に属する。 ベルンの気候
人口
ドイツ語 81.2%
イタリア語 3.9%
フランス語 3.6%
気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
平均最高気温 °C (°F)2.2