ヨシフ・スターリンの死から3か月後の1953年6月、東ベルリンで、直接的にはノルマ引き上げなどを理由とする大規模な反政府デモが起きたが、ドイツ人民警察と在独ソ連軍によって6月17日に鎮圧された(ベルリン暴動)。
西ベルリンの主要な道路であるシャルロッテンブルガー・ショセーは、この事件を機会に「6月17日通り」と改名された。旧西独はこの日を「ドイツ統一の日」とした(現在では「ドイツ統一の日」は、実際に東西ドイツが統一された10月3日に変更されている)。なお、この通りはちょうど東西ベルリンの境界となったブランデンブルク門を境に名前が変わる。東ベルリン側にあたるのがウンター・デン・リンデン通りである。
東西ドイツの国境が封鎖された後も東西ベルリンの間だけは往来が自由であったため、東ドイツ→東ベルリン→西ベルリン→西ドイツ、と脱出する人が続出した。労働人口の流出を恐れた東ドイツ政府は1961年8月13日に東西ベルリンの境界線を封鎖。後には西側占領地区と東ドイツとの境界線上にベルリンの壁を建設した。この時代のベルリンは、東西冷戦の最前線であった。また超大国・米ソ両国の戦車が睨み合う場面があった。1971年に4者合意により西ベルリンへの車や列車によるアクセスが保証され、アクセスルートの東ドイツからの妨害の可能性が排除された[44]。
1989年11月9日、東ドイツ政府は東西ベルリンの境界線を開放し、ベルリンの壁は崩壊する。 1990年10月3日には東西ドイツが統一し、1991年にはベルリンが東西統一ドイツの首都と定められた。以降、東西に分断されていた道路網や地下鉄も含む鉄道網などの交通網を東西で直結する工事が行われ、インフラ整備や再開発が旧東ベルリン地区を中心に進行した。また、再度首都と定められて以降、ボンからの連邦政府諸機関の移転も漸次進められた。首都機能移転は2001年5月2日に完了し、現在では再度、名実ともにドイツの首都となった[12]。ベルリンの壁が撤去され市内中心部には広大な空き地が出現した。その一つであるポツダム広場は再開発され、巨大なビジネス・商業エリアになっている[45]。 ベルリンはドイツ連邦共和国の首都で、元首の連邦大統領、政府の長である連邦首相、および連邦の議会両院を擁する。公式の大統領官邸はベルヴュー宮殿である[46]。首相官邸は連邦首相府である。首相府と向かい合うのが、改修された帝国議会議事堂であり、ドイツ連邦議会はここで開催されている。1998年以来、ドイツ連邦共和国の政府はベルリンにある。連邦参議院の議員はドイツの各連邦州の代表者で構成されており、かつてのプロイセン王国貴族院からの流れを組む。ほとんどの中央官庁はベルリンに本庁を置いているが、若干は現在でも西ドイツの首都であったボンに置かれているベルリン・ボン法
ベルリンの壁崩壊後
政治連邦議会議事堂(国会議事堂)連邦首相府
首都機能
1990年10月3日のドイツ再統一以来、ベルリンはハンブルクやブレーメンとともに3つある都市州として、全16の連邦州を構成している。1995年4月27日にはブランデンブルク州と州首相同士が合併に合意[49]し、合併案は両州の議会を通過したが、翌1996年5月5日の住民投票でブランデンブルク州側の反対が多く否決された[50]。
州の政治赤の市庁舎ベルリン市長フランツィスカ・ギファイ(2023年1月現在)
ベルリン州の議会はベルリン市議会(Abgeordnetenhaus)であり、147議席で構成されている(2023年1月現在)。議員の任期は5年[51]。ベルリンは都市州であるため、議会は市議会と州議会の権限を併せ持つ[51]。
ベルリン市長(Regierender Burgermeister、直訳的には「統治者である市長」)は、議会議員選挙のたびに議会によって選出され、ドイツ連邦議会が任命する[51]。