ベルリン
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1871年にプロイセン国王ヴィルヘルム1世が皇帝となってドイツ帝国が成立し、ベルリンはその首都となった。ビスマルクの外交手腕とオーストリア・ハンガリー帝国の凋落により、ベルリンはヨーロッパにおける国際政治の中軸となる。人口は飛躍的に増え、30年戦争勃発時には1万人程度であったのが19世紀初頭に17万となり、1860年には50万、1877年の統計では100万を数えた[34]。1873年(明治6年)には日本の岩倉使節団がベルリンを訪問しており、その当時のベルリンの様子が一部銅版画も交えて『米欧回覧実記』に詳しく記されている[35]。1882年(明治15年)には日本の憲法を起草するための調査に伊藤博文等がやってきている。また、1884年(明治17年)には森?外が留学し、留学中の経験をもとに小説『舞姫』(1890年(明治23年)『国民之友』)を著している。

第一次世界大戦でドイツ帝国は崩壊し、戦後はヴァイマル共和国の首都となった。ベルリンはなおもヨーロッパの芸術・学問の中心として栄えた。その一方でベルリンは政治的に「赤いベルリン」の異名を持つ社会主義共産主義の牙城であり、1928年の選挙では票が社会民主党が33%、ドイツ共産党が25%であるのに対してナチスは2%であり[36]、ヒトラー政権成立直前の1932年11月の選挙では共産党がベルリンで投票総数の31%を獲得して単独第一党となった[37]。1933年にナチスが政権を奪取し、ベルリンはそのゆがめられた政策によって文化が衰退する。

1939年時点で人口434万人の大都市となっていたが[34]第二次世界大戦ではドイツとイギリスとの間で首都爆撃の応酬があった上[38]、ソビエト連邦の逆侵攻で独ソ戦最後の戦場となり、徹底的に破壊され(ベルリン市街戦)約125,000人の市民が犠牲となった[39]。ベルリン市民の女性の多くがソ連兵に強姦されたと言われている。ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた10万の女性のうち、その後死亡した人が1万前後でその大半が自殺だった。ヒトラー政権下のベルリンには、日独関係強化のために派遣された日本の外交官や軍人のほか、商社員、留学生など、常時400人以上の日本人が在留し、欧州で一番日本人の多い都市のひとつだった[40][41]
冷戦時代第二次世界大戦後の荒廃(1945年、ポツダム広場)1986年、ベルリンの壁4カ国による統治

第二次世界大戦後、ベルリンとその周辺地域はソビエト連邦(ソ連)に占領されるも、ベルリンは連合国の合意でアメリカイギリスフランスソ連によって周辺地域とは別に分割占領され、西側3か国占領地域はソ連占領地域の中に位置する飛地である西ベルリンとなった。1948年にはソ連が西ベルリン封鎖を行ったが、西側は空輸作戦でこれに対抗した。この作戦は1948年6月24日から翌1949年5月11日まで続けられていた[42]

1949年に東西ドイツが分裂して独立し、ソ連占領地区はドイツ民主共和国(東ドイツ)の首都・東ベルリンとなり、西側3か国占領地域は東ドイツの中の飛び地のまま、形式的には米・英・仏の共同占領地ながら、実質的にはドイツ連邦共和国が主権をもって実効的に統治する西ドイツ領・西ベルリンとなった。西ドイツは首都をボンに置いた[43]。西ドイツ本土と西ベルリンは空路または直通専用道路で往来が可能だったが、形式的には西側3か国の管理下に置かれたため、テーゲル空港など西ベルリンの空港への乗り入れは米・英・仏の航空会社のみが認められ、ルフトハンザドイツ航空の乗り入れは禁止されていた。

ヨシフ・スターリンの死から3か月後の1953年6月、東ベルリンで、直接的にはノルマ引き上げなどを理由とする大規模な反政府デモが起きたが、ドイツ人民警察在独ソ連軍によって6月17日に鎮圧された(ベルリン暴動)。

西ベルリンの主要な道路であるシャルロッテンブルガー・ショセーは、この事件を機会に「6月17日通り」と改名された。旧西独はこの日を「ドイツ統一の日」とした(現在では「ドイツ統一の日」は、実際に東西ドイツが統一された10月3日に変更されている)。なお、この通りはちょうど東西ベルリンの境界となったブランデンブルク門を境に名前が変わる。東ベルリン側にあたるのがウンター・デン・リンデン通りである。

東西ドイツの国境が封鎖された後も東西ベルリンの間だけは往来が自由であったため、東ドイツ→東ベルリン→西ベルリン→西ドイツ、と脱出する人が続出した。労働人口の流出を恐れた東ドイツ政府は1961年8月13日に東西ベルリンの境界線を封鎖。後には西側占領地区と東ドイツとの境界線上にベルリンの壁を建設した。この時代のベルリンは、東西冷戦の最前線であった。また超大国・米ソ両国の戦車が睨み合う場面があった。1971年に4者合意により西ベルリンへの車や列車によるアクセスが保証され、アクセスルートの東ドイツからの妨害の可能性が排除された[44]

1989年11月9日、東ドイツ政府は東西ベルリンの境界線を開放し、ベルリンの壁は崩壊する。


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