ベルリン市街戦
[Wikipedia|▼Menu]
また、第2白ロシア方面軍(司令官コンスタンチン・ロコソフスキー元帥)は、シュテッティン- シュヴェート(ドイツ語版)間北方で、ヴァイクセル軍集団(司令官ゴットハルト・ハインリツィ上級大将)配下の第3装甲軍(司令官ハッソ・フォン・マントイフェル大将)の防衛線の北側中央部を攻撃した[3]。その結果、4月24日までには、第1白ロシア方面軍と第1ウクライナ方面軍の主力は、ベルリン市の包囲を完了[5]、その翌日の25日、第2白ロシア方面軍がシュテッティンに築いた橋頭堡を足がかりに第3装甲軍の防衛線を南へ突破、ランドウ(ドイツ語版)湿地を横断したが、それはバルト海に面したシュトラールズントの港へ進出していたイギリス軍第21軍集団のところまで障害無しに北進することが可能になったことを意味した。

第5親衛軍配下のソビエト第58親衛師団は、エルベ川沿いのトルガウ近くで、アメリカ第1軍配下の第69歩兵師団と邂逅した[6]。ベルリンを包囲した赤軍はSバーンを環状に形成したドイツ軍防衛線へ徹底的に浸透し、しらみつぶしに撃破していた。4月25日遅く、戦いの最終局面は、すでにベルリン市内に移り、ベルリン市におけるドイツ防衛部隊の戦いが赤軍による占領を遅らせるとは思われなかった[7]
決戦前夜

ベルリン防衛軍司令官ヘルムート・ヴァイトリング大将が使用できる戦力は損耗し切った国防軍、武装SSの数個師団で合わせて45,000人ほどであり、さらに警察官ヒトラー・ユーゲント国民突撃隊が加わった[注 3]。国民突撃隊は40,000人ほどいたが、その中には若いころに従軍経験のある者が多く、第一次世界大戦の従軍者までいた。ヒトラーによりベルリン中心部防衛にはヴィルヘルム・モーンケSS少将が任命され、総統護衛大隊などを中心とする兵士2,000人がその指揮下に配属された[注 4]。ヴァイトリングは市内を「A」 - 「H」の8区画に分けて、それぞれ防衛部隊を配置したが、部隊のほとんどは戦闘経験がなかった[1]。ベルリン西方を第20装甲擲弾兵師団、北方に第9降下猟兵師団、北東にミュンヘベルク装甲師団、南東方向とテンペルホーフ飛行場第11SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」、予備として第18装甲擲弾兵師団が中央部とそれぞれ配置された[12][8]
作戦

赤軍は砲兵による濃厚な支援射撃の元、6 - 8人の兵で小規模な戦闘グループを作り、それをさらに80人ほどにまとめ、武器を混成させた部隊を構成させた。これらは赤軍が独ソ戦で攻勢に転じてから、各々のFestungsstadt(要塞都市)を巡る戦いで家ひとつひとつを奪い合う激戦に有効な戦術として発案されたものだった[13]ドイツの標準的建築物

ベルリン市内を防衛するドイツ軍には3つの問題が生じていた。第1にドイツ軍がこの5年間に負った損害、第2にベルリン市の地形的特徴、第3に赤軍の戦術であった。特にベルリン市中央部の大部分はいくつかの水路公園、及び広大な鉄道関連施設や広く直線でできた道路から形成されており、なおかつ、一部にクロイツベルク山(ドイツ語版)(海抜66メートル)が存在する程度の平地であり、侵攻を妨げる要害が存在しなかった。また、標準的な住宅のほとんどは煉瓦で造られた19世紀に建設されたもので、通りから石炭を運ぶ馬車トラックが中庭に入れるように通路がついていた。さらにはその中庭を中心に建物が並んでおり、どこからでも進入できる作りになっていた。武装SSは戦いの間、通りに面した建物を遠距離砲撃で崩して陣地を形成したので街角の急造バリケードを使わなかった[注 5]。そして、赤軍戦車の機銃が高い位置の目標を撃つことができなかったので、建物ごとに狙撃兵や機関銃を配置し、さらには窓のある地下室や通りに空いた穴にパンツァーファウストを配置した。これらの戦術はヒトラー・ユーゲントや国民突撃隊も行った[16][17]戦後の急造バリケード

赤軍はそれに対抗するためにタンクデサントを配置、軽機関銃などを装備させたが、これは戦車の射撃範囲を狭めることとなった。そのため、もうひとつの解決策として実行したのは、ドイツ軍狙撃手に対して対空砲を使い、建物には重砲撃(主に152mmと203mm)を浴びせ、通りに面した建物をひとつひとつ掃討していくことだった。戦闘は屋根伝いや屋根裏で行われたり、隣接した建物の穴を抜け、時折壁をぶち抜き(これにはドイツ軍が遺棄したパンツァーファウストが非常に有効であった)、地下室や部屋伝いに行われ、この浸透戦術は戦車を待ち伏せしていたドイツ兵を狩り出した。手榴弾火炎放射器はこの戦いで非常に効果があったが、ベルリン市民が避難していなかったため、多くの犠牲者を出すこととなった[16][14]
ベルリン市街戦
郊外

郊外での戦闘が絶望的になったことでベルリン市の運命は事実上決していたが、ベルリン市内での戦闘は継続していた[7]。4月23日までには、第1親衛戦車軍(司令官ミハイル・カトゥコフ)とその他の部隊がケーペニック(ドイツ語版)の南でシュプレー川、ダーメ川(ドイツ語版)に至り、4月24日までにブリッツ(ドイツ語版)、ノイケルン(ドイツ語版)へ進撃した[18]。また、早朝には第5打撃軍(司令官ニコライ・ベルザーリン)がシュプレー川を横断、トレプトウ公園(ドイツ語版)にいたった。24日未明に第56装甲軍団の反撃を受けたが、これを撃退、さらに進撃したため[19]、赤軍の大きな楔が打ち込まれ、第1親衛戦車軍はテルトウ運河(ドイツ語版)越しに攻撃を行った[18]。6時20分、約3,000門の砲による砲撃と重爆撃機による爆撃を開始、架橋が終了した直後の7時に最初の部隊が運河を渡り、12時には戦車が支援に加わった。夜にはトレプトウ公園を占領、ソビエト赤軍はSバーンに達した[18]

戦闘はベルリン市の南東で激化し、第33SS武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」(フランス第1)(司令官グスタフ・クルッケンベルク(ドイツ語版))のフランスSS突撃大隊に所属する約300名のフランス人義勇兵第11SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」と合流した。その日、ベルリン市に到着した増援はこのフランス人突撃大隊だけだった。彼らは、ハーフェル川とシュプレー川の向かい側の無人のバリケード以外の防御が手薄な西郊外を通り、ノイシュトレーリッツの近くの親衛隊施設からベルリン市の中央部へ移動した[20][7]

4月25日、第11SS装甲擲弾兵師団「ノルトラント」司令官ヨアヒム・ツィーグラー(ドイツ語版)が解任され、後任司令官となったクルッケンベルクが「C」区画の防衛を任されることになり、フランス人義勇兵たちは「ノルゲ」連隊および「ダンマルク」連隊が壊滅した「ノルトラント」師団と共に防衛線を補強することになった[21]。正午、彼は「C」区画に到着したが、テルトウ運河南方のドイツ軍橋頭堡はすでに放棄されており、夜には「C」区画を放棄して市中央部「Z」区画(ミッテ地区(ドイツ語版))へ退却しなければならないと陸軍総司令部(OKH)ハンス・クレープス大将へ連絡した[22][23]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:129 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef