ベルリンの壁
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ベルリンは1701年にプロイセン王国の都となって以降、1871年のドイツ帝国成立、ヴァイマル共和政を経てナチス・ドイツ政権が1945年5月8日に崩壊するまで、一貫してドイツの首都であった[4][注 1]。東ドイツと西ドイツの境界上にあったわけではない。

戦後のベルリンの管理については、大戦が終わる8か月前の1944年9月12日に英米ソ間の協定の第2条で「『ベルリン地区』は当該最高司令官が指定する米英ソの武装軍隊により共同して占領される」と取り決められた。その後、11月14日の協定によりドイツ全体についても協定が結ばれ、各占領軍の政策によるのではなく、ドイツ管理理事会が指揮することになっていた。しかし実際は、各占領軍が自国の占領政策を展開し、各占領地域ではその最高司令官が最高決定権を持っており、独自に命令や法令を発することができる状況になっていた[5]

ドイツの降伏後、1945年6月5日に「ベルリン宣言」が発表され、ドイツは英米ソにフランスを含めた戦勝4か国の分割統治となる。しかし、直前4月のベルリンの戦いの際に東から侵攻した赤軍(=ソ連陸軍)が西から侵攻した英米軍に先んじてベルリンを占領しており、両勢力の境界線はベルリンより西になったため、ベルリン市周囲のドイツ本土はソ連統治地区になった。その上でベルリン市内も英米仏ソ4か国で分割統治したため、英米仏3か国が統治するベルリン市内の地区は周囲をソ連の統治地区に囲まれる形となった[6]

6月14日付の電信でハリー・S・トルーマン大統領は、ヨシフ・スターリン書記長に対して英米仏軍のベルリンへの鉄路・陸路・空路の自由な使用を要請したが、6月16日付の返電は「必要に応じて保障する」という曖昧な内容であった。6月29日に西側は
西側占領地域からベルリンとの間で、3つの高速道路の無制限使用権

指定された鉄道の3路線の使用権

3つの飛行場の無制限の航空路使用権

などを要求したが、赤軍最高司令官ゲオルギー・ジューコフ元帥は、1つの鉄道、1つの高速道路、1つの航空路、2つの飛行場の使用を認める、とした回答であった。

戦後のベルリンでは、先に駐留していたソ連が着々と自国型の新しい秩序を作り上げつつあるところに、1945年7月4日に英米軍が、8月12日に仏軍が進駐してきた。ここで市の4か国統治が始まり、この特殊な形態により、ベルリンは東西両陣営による占領政策が真っ向から対立することとなった[7]
ベルリン封鎖

この西側3か国とソ連との間での占領政策の対立は、1947年から英米ソ間で激しさを増し、1947年6月にアメリカが戦後ヨーロッパ経済の復興と再建を目的とした経済復興計画「マーシャル・プラン」を発表、1948年6月に新しい通貨ドイツマルクを導入する通貨改革を西側だけで実施した。これにソ連が反対してソ連統治地区東ドイツマルクを発行し、強硬策に出た[8]:89。1948年7月24日、ソ連は西ベルリンと西ドイツをつなぐすべての陸上交通を遮断した。これにより交通網だけでなく、水道や電気などのライフラインまで遮断されたため、市民生活に深刻な影響を与えたが、イギリスとアメリカは陸の孤島となった西ベルリンに大空輸作戦を敢行して援助物資を大量に送り、ソ連は10か月後の1949年5月12日に封鎖を解除した(ベルリン封鎖)。

ソ連は、西側諸国が西ドイツの建国と再軍備を目指していると見ていた。西ベルリンを封鎖したのはそれらを放棄させようとしたものであり、そして西側に西ベルリンを放棄させ市を統一し、ソ連に政治的にも軍事的にも依存した国家を建設しようと考えていた。東ドイツの心臓部に西側の拠点があることはソ連にとって都合が悪く、西側が西ベルリンを放棄することになれば、西ドイツの人々も西側に追随することに躊躇するだろうという読みもあった。しかし、トルーマン大統領は「ソ連の圧力に屈することがあってはならないが、全面戦争に発展しかねない対決も避けねばならない」と考え、大々的な物資支援によってその意思を見せつけたことで、ソ連は封鎖の目的を果たせなかったばかりか、西欧各国に自主防衛の強化、また集団防衛体制の構築を促し、1949年4月に北大西洋条約[注 2]が締結され[9]:59-62、結局ソ連にとってマイナスの効果しか生まなかった。

しかし、封鎖の間にベルリン市議会は東西に分裂し、分断国家の歩みは既成事実化していった[10]:73-74。封鎖が解除された直後の1949年5月23日、イギリス・アメリカ・フランス側占領統治地区ボンを暫定首都としたドイツ連邦共和国(西ドイツ)が、10月7日にはソ連占領統治地区にドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立、ベルリンが東ドイツの首都となった[8]:90。
スターリン・ノート

東西分裂後の1952年3月10日、のちに「スターリン・ノート」と呼ばれるソ連からの覚書がアンドレイ・グロムイコ外務次官から英米仏3か国の大使に手渡された。その内容は懸案になっていたポーランド西部国境(オーデル・ナイセ線)には触れずに、ドイツを再統一し、英米仏ソの占領軍は撤退、統一ドイツは独自の軍隊の保持を認めるが、その代わりに中立化するとした提案であった。このための平和条約を結ぶために米英仏ソのほかポーランド、チェコスロバキア、ベルギー、オランダ、ほかに対独戦に参加した諸国を参加国とするとして、その条約には7項目の政治的原則、領土、経済的原則、2項目の軍事的原則、そしてドイツと国際連合組織からなっていた。これはスターリンとしてはかなり譲歩したものであった[11]

翌日3月11日、西側陣営と西ドイツとで協議したが、ソ連の妨害工作として否定的な意見が出た。これは当時西欧で協議していた欧州防衛共同体(EDC)構想で、欧州統一軍に西ドイツの兵士を参加させる案が進められていることに対して、西ドイツの再軍備を阻む目的があったとされている。西ドイツのコンラート・アデナウアー首相も断固反対であったが、国内では与党内でも「検討に値する」との意見が出て、野党ドイツ社会民主党はこの覚書を再統一へ向けて建設的に活かそうとする意向であった[12]

スターリン・ノートは英米仏にとって最も真意がつかみにくい文書として、のちに議論が絶えなかった。3月25日にアメリカは覚書の回答を送り、国連委員会の管理下でドイツ全土での自由選挙を提案した。これに対し、4月9日にソ連は4か国の管理下での自由選挙の実施を提案してきた。5月13日に英米仏はこの提案には同意できない旨回答した。その理由は、4か国が裁判官にもなり党派を代表することにもなるため避けなければならないというものであった。5月24日、ソ連は業を煮やしてドイツ問題の協議を進展させたいとしながら、西ドイツの再軍備とEDCへの参加に強い非難をしている。この3日後にEDC条約が調印され、このスターリン・ノートは文書でのやり取りで終わった。アデナウアーはソ連のドイツ中立化の狙いは欧州のソ連圏への組み込みだと判断し、最初からスターリン・ノートをソ連の牽制だとして受け入れる意志はまったくなかった[13]
ベルリンへの通行問題

封鎖が収まっても、ベルリンの緊張状態は変わらなかった。とりわけ、最初にソ連・英米仏間で食い違っていたベルリンへの通行に関する問題は未解決のままであった。西ドイツから西ベルリンへ行くには東ドイツ領内の高速道路を通り抜けるか、西ドイツ国内の飛行場から英米仏の航空便を利用するしか選択肢はなく、西ドイツ独自に動くことはできなかった。

ソ連による西側への交通妨害は封鎖解除後も変わらず、1952年5月27日に西ドイツがEDCに加盟すると、西ベルリンへの交通網が再度遮断され、同時に東西ベルリン間および東ドイツとの電話回線も全部絶たれた。同日に西側は声明を発表し、ベルリンに対する攻撃は西側連合国に対する直接の攻撃とみなす旨を警告した。交通遮断はすぐに解除されたが、以降もたびたび遮断と解除を繰り返している。しかし、電話回線の切断はそのまま続行され、20年後の1972年にようやく解除された。

8月2日にはベルリンへの高速道路通行料に多額の道路税を課したが、9月20日に東西間の貿易協定が締結されたことによって解決された。この間には米軍の病院機がソ連機に妨害される事態や、1953年には英軍機がエルベ川上空でソ連機に撃墜される事件が発生している[14]。これらの問題は1961年夏のベルリンの壁の建設時に、米ソ首脳(ケネディ大統領とフルシチョフ首相)間で暗黙の了解で安定化し、1971年9月3日の4か国協定で法的な保障を得ている[15]
当時のベルリン

東西ドイツ国境(ドイツ国内国境線)は1952年に閉鎖されたが、ベルリンにおいて東西間の移動は壁の建設までは自由で、通行可能な道路が数十あったほかに、ベルリン地下鉄(Uバーン)や高速鉄道(ベルリンSバーン)などは両方を通って普通に運行されていた。境界を越えて通勤する市民も多く、1950年代の時点で東から西の職場へ行っている者が約6万3,000人で、逆に西から東の職場に行っている者が約1万人いた。この時代は西のマルクのヤミ値が東の4倍だったため、西で稼いで東に暮らすと生活は楽であった。それ以外の一般的な往来も多く、1日あたり約50万人が東西境界線を通過していたといわれる[16]:160。このため、周囲を全て東ドイツに囲まれた西ベルリンは「赤い海に浮かぶ自由の島」、「自由世界のショーウィンドー」と呼ばれた。

西ベルリンと西ドイツとの間の往来は、指定されたアウトバーン、直通列車(東ドイツ領内では国境駅以外停まらない回廊列車)、および空路により可能であった。東ドイツを横切る際の安全は協定で保証されたが、西ベルリンに入れる航空機は英米仏のものに限られた。

東ドイツ・西ベルリン間の道路上の国境検問所は3か所あり、NATOフォネティックコードでA(アルファ)、B(ブラボー)、C(チャーリー)と呼ばれた。Cは「チェックポイント・チャーリー」の別名で知られ、特に有名な東西冷戦の舞台の一つとなった。


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