ベルリンの壁
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ヴィルケによると、ウルブリヒトが東西ベルリン遮断をソ連側に求めたが、フルシチョフは1961年6月のウィーンでのジョン・F・ケネディ米大統領との会談まで待つよう返答していた[注 6][要出典]。
ウィーン会談フルシチョフ首相(左)とケネディ大統領(右)(1961年6月3日)

1961年6月3日から4日にかけて、ケネディとフルシチョフとの間で米ソ首脳会談が行われた。初日のキューバ問題や東西関係全般についての協議は両者の主張を述べる平行線的状況にとどまっていたが、2日目にベルリン問題が討議されると、激しい意見の応酬になった。

まず、フルシチョフは、米英仏ソと西ドイツは、東ドイツと平和条約を結んで、第二次世界大戦の戦後処理を終えるべきだと主張し、「ベルリンの地位を変更する平和条約を結ぶことで大統領と合意したいと思う。それが出来なければソ連単独で条約を結び、これまでの戦後の約束を全て反故にするつもりだ。以後は西ベルリンは自由都市となる。そこにはアメリカ軍は留まるがソ連軍も入る。国連軍や中立国軍が駐留することも賛成する用意がある。」と語った。対してケネディは「西欧はアメリカの国家的安全のためには不可欠なものです。西ベルリンを語ることは西欧を語っているのです。なぜアメリカが不可欠な関係を持ち長く存在している場所から去るように求めるのか、理解するのが困難だ。戦争によって勝ち得た権利を放棄することをアメリカは決して同意しない。」と主張した。

するとフルシチョフは激しく反発して「この行動がアメリカの利益に反するとは全く理解に苦しむ発言です。ベルリンにおける自国の利益を保護しなければならないというアメリカの論理は到底理解できないし、ソ連が受け入れることはありません。世界の如何なる力をもってしても我々が平和条約に向けて前進することは誰も止めることは出来ません。」と語り、ここで平和条約を結んだ後の西ベルリンの状態についてフルシチョフは「ソ連と東ドイツで平和条約が為されれば、ドイツ降伏の際に連合国間で取り決めたベルリン占領権や通行権は失効する、つまり、各国の軍隊はベルリンから撤退せねばならない」と説いた。これに対して、ケネディは「ベルリンを見捨てればアメリカは信用を失う」と主張し、激しい応酬となった。

フルシチョフは「ソ連は平和条約を結びます。ドイツ民主共和国の主権は尊重されます。その主権に対するいかなる侵害もソ連によって公然たる侵略行為と見なし、しかるべき結果を招きます。」と半ば戦争を招くことになると公言してケネディを驚かせた。結局ケネディは引き下がらず、フルシチョフは「ソ連は今年中に単独でも東ドイツと平和条約を締結する。」と告げ、あるいは「条約に至らなくても東ドイツと暫定的協定を結び、そして戦争状態が終結すれば、(東ドイツ領土である)西ベルリンに西側の軍隊が駐留するのは侵略行為になる。」と続けた。さらに「侵略を阻止するためには戦争も辞さない」と捲し立てた。しかしケネディは、フルシチョフの要求を完全に突き返し、どんな危険を冒しても西ベルリンを守りきると告げ、物別れのままウィーン会談は終わった[29]
ソ連の袋小路

ケネディとの会談でフルシチョフは、米国が東ドイツを国家承認し、平和条約を結ぶするよう求めたが、ケネディは拒否した。そしてそれならばソ連は単独で東ドイツと平和条約を結び、その結果西ベルリンの占領統治は終わり、東ドイツに返還しなければならないと主張した。

しかしこれは結局ソ連にとって自らの手を縛ることになった。西ベルリンに西側3ヵ国の軍が、東ベルリンにソ連軍が存在する状況で、東ドイツに管理権を譲ったところでそもそも東ベルリンに東ドイツ軍は入っていない状態であり、東ドイツには何もできない。ヴィルケによれば「東ドイツはソ連を通じてしか目的を実現できず、国際交渉において発言力は無かった」と指摘し、「ソ連にとってベルリン問題はあくまでも欧州の力関係をソ連優位にするためのテコだった」とし、ベルリンの壁建設は米軍を撤退させ、西ベルリンの管理権を握るというソ連の外交攻勢からの撤退だったと結論している。

後にフルシチョフが語ったところでは、ウルブリヒト第一書記がベルリンの交通遮断を求めたが、壁の建設にフルシチョフは苦悩していた。壁の建設は社会主義の世界的評判にとって打撃であることを彼は十分認識していたが、一方で東から西へ大量の人口流出に対策を早急に打たなければ東ドイツ経済が完全に崩壊するのは目に見えていたためである。人口流出を防ぐためには空路の遮断か壁の建設の二つだが、前者は米国との武力衝突を招きかねなかったのである[30]

ウィーン会談の決裂をきっかけとして、フルシチョフは壁の建設とベルリンの交通遮断を認めた。しかし、会談で通告した東ドイツとの平和条約締結は10月に撤回している。東ドイツへの影響力を保持するには現状のままでベルリン問題へのソ連の主導権を確保することが得策であることに気づいたからであった。やがて米ソ両国の主導権を握る地域を明確に分けて、お互いが干渉しない暗黙の了解が成立し、ベルリンの壁を建設し通行を遮断したことで、ベルリン問題はその後に固定化し、逆に状況は安定化に向かうことになる。
ウルブリヒトの壁発言

6月15日にウルブリヒトは西側記者との会見に臨んだ。この時点ではまだ壁建設の了解をソ連から取り付けていなかったが、ウィーン会談の結果を聞いてウルブリヒトは壁建設に進めると確信していた。そしてこの日の記者会見で、東ドイツはブランデンブルク門の脇に国境を設けるのかという質問に対して「そうした壁建設の計画があるとは承知していない。我が国の建設労働者は住宅建設に忙しく、誰も壁の建設など考えていない。」と答えた。国境のことを聞かれて思わず壁について答えてしまったのである。しかし記者たちはそのことに気づかず、その後の展開を誰も予測していなかった[24]:61-62。

翌月に壁の建設の了解をソ連から得たことで、ウルブリヒトは向後にソ連と平和条約を結び、ソ連の後押しで西ベルリンの「解放」に進めると考えた。
アメリカの動き

ウィーン会談でフルシチョフのベルリン問題についての言及に苦しめられたケネディ大統領は、その後ベルリンに差し迫った状況が訪れようとしていることを予感していた。アチソン外交顧問(トルーマン政権での国務長官)は、最も強硬な対応策を主張し、核戦争も辞さずとして国家非常事態宣言と戦時のような動員をかけるよう文書で大統領に提出した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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