ベルリンの壁
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ベルナウ通り[注 18]では道路と建物の間に境界線が引かれていたが、壁の建設が始まった時に事情をいち早く察知して逃亡した者以外は壁の建設部隊が到着するまで建物に住み続けていた。壁建設から1週間後の1961年8月19日、当局が通り一帯の住民およそ2000人に退去命令を出し、境界線(通りに面したドアと窓の目の前)にレンガを積み始めた。建物の2階に住んでいたルドルフ・ウルバン(47歳)は窓からロープを伝って降りようとしたが、その最中に警察が自室に入ってきたことで慌ててロープから手を放し、3mの高さから落下し、その後病院で死亡した。これがベルリンの壁での最初の犠牲者とされている[100]

同じくベルナウ通りの住人フリーダ・シュルツ(77歳)は、窓の下の地面消防隊が敷いた毛布に飛び降りようとしたが、部屋に踏み込んできた警官に両手を掴まれた。外で受け止めようと待ち構えていた西側の市民が彼女の足首を掴んで二人がかりで引っ張り返し、身柄を警官からもぎ離した。この場面は丁度この現場を通りかかったアメリカ特使団のヘムシング広報官が目撃して「非常に感動的な光景だった」と後に述べ、またこの場面を撮影していたフィルムはニュース映画に使われて有名な話となった[101]。最終的にベルナウ通り沿いの建物は廃屋となり、やがて爆破され、更地となった。東ドイツ当局は9月半ばまでに東ベルリン市民2665人を政治犯罪で連行した[102]。この政治犯の連行は、別に6000人以上が逮捕されその内3100人が刑務所に数年入れられたとする説がある[24]:38。

8月24日、ギュンター・リトフィンは、交通警官に呼び止められたのを無視して水路に飛び込んだが、撃たれて死亡した。ベルリンの壁建設後、最初の市民の殺害事件であった[24]:32-33[注 19]

1961年暮れに8両編成の列車の運転士が計画して、もう1人が線路のポイントスイッチを切り替えて、東側から西側につづく線路に進入して有刺鉄線を引き倒してすぐ西側の野原に停車した。この時に男性8人、女性10人、子供7人がそのまま西へ逃れ、事情を知らない他の乗客は東へ戻った[103][注 20]

1962年8月17日、ペーター・フェヒター(18歳)がチェックポイント・チャーリーのすぐ近くで越境しようとして撃たれた。その時はまだ息があったが、倒れた場所が壁の東側だったため西側にいた警官や米兵や報道陣、群衆は彼を救い出すことは出来ず、壁の上の鉄条網から救急箱を投げ入れるのが精一杯であった。そして東側は西側との衝突を恐れて監視所から動かず、彼はそのまま失血死した。この一部始終を目撃した人は多く、西ベルリンでは激しい抗議行動が起こった。彼はベルリンの壁の最も有名な犠牲者となった。37年後の1999年にベルリン市はこの場所にペーター・フェヒターの記念碑を除幕している[17]:214-215[24]:102-104[104]

1962年9月14日から15日にかけて29人がおよそ135メートルの地下トンネルを通って西ベルリンへ亡命。トンネル29として知られ、このトンネルを原作にしてフィクションのテレビ映画「トンネル」が作られた。

1964年10月に、トンネルを掘って57人が西へ逃れた。計画したのは西側の冒険家で工科大学の学生も含めて組織的に行われ、西からトンネルを掘り、東側では西の連絡員が手引きした大掛かりな脱出作戦であった。場所はベルナウ通りを挟んで西側のパン屋の地下室から3m下へ掘り、そこから145m進んで、ベルナウ通りの向こう側のある家の裏庭の今にも倒壊しそうな屋外トイレまで半年をかけて掘った。穴の縦はおおよそ70cmで、掘り出した土は西側のパン屋の部屋に積み上げていった。連絡員の間では同年の東京オリンピックにかけて「トーキョー作戦」と呼ばれた。1人は入口の見張りとして東側に合法的に入り東側の国境警備隊の動きを見張った。そして西側の連絡員が暗号電報を使って連絡を取り合い、越境を希望する者を探し、トンネルの入口付近の家に案内し、西側から双眼鏡で監視して尾行されていないことを確認してから無線で東側の家の中にいる者に連絡してドアを開けて家の中に入れた(この時の合言葉はトーキョーであった)。そして裏庭から屋外トイレに行き、便器を取り外して下のトンネルに入り、およそ11分から30分かけて西側のパン屋の地下室に達した。時間がかかったのは途中で水が深くなって息をするのが難しい地点があったことと、トンネルに入った人々は一様に恐ろしさに震え、泣き出す女性もいて、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}無遊状態[要説明]になって足取りが覚束ない人もいたからであった。それだけに脱出した後は激しい感情の波が押し寄せたとされている[誰によって?]。こうして10月3日に28人、4日に29人が西ベルリンに逃れた。内訳は男性23人、女性31人、子供3人であった。しかし5日朝にシュタージに発見されて、裏庭で撃ち合いとなり東側兵士が1人撃たれて死亡したが、西側の4人はトンネル入口のトイレから下へ通じ、そのまま西へ戻ることが出来た。この直後に東ドイツ政府は東西間の境界付近の保安活動は国家保安省(シュタージ)のみで行うことを決めた。この作戦行動は後に助かった57人から「トンネル57」として最も有名なトンネル脱出劇となった[105]

同じく1964年、米軍車両が東ベルリン地区で定期的に行っていたパトロール[注 21]に着目した東ベルリン市民が、ひそかに米軍車と同型の偽物を造り、これも本物と同じデザインの軍服を着た偽物の軍人が運転し、トランク内にそれ以上の人数が隠れて、本物の米軍車がパトロールを行っている最中に堂々と検問所を突破した。検問官も偽物の車両であることに気づかず、しばらくしてから本物の車両が戻ってきたときに押問答になってからことが発覚した[107]
鉄条網を飛び越えるコンラート・シューマンの写真をもとにしたグラフィティ

ドイツ民主共和国国境警備隊に従事する兵士の中からも、亡命者が続出し、ベルリンの壁建設直後の6週間で85人が逃亡した[108]。1961年8月15日に機動隊下士官コンラート・シューマンはルピン通りとベルナウ通りが交わる地点の国境線で逃亡を企てる者を阻止する任務についていたが、反対側の西側の多くの人々が見ている前で有刺鉄線を飛び越えて西へ逃れた。この兵士が有刺鉄線を飛び越えた瞬間の写真はその後『自由への飛翔』として有名なものとなった[24]:38[109]。1968年時点では、総勢8,000人で、ベルリン市民でなく西ドイツに親類がいない者が、「ベルリンの壁」担当の警備兵となっていた。逃亡防止のために2人一組で行動していたが、逆に逃亡を試みた側が同僚を銃撃することもあった。勤務中に射殺された警備兵は16人であったが、その半数は逃亡を図った警備兵の犯行であった[110]

ベルリンの壁を巡る最後の犠牲者は、1989年2月6日クリス・ギュフロイ(20歳)が最後とされている。ただしクリストファー・ヒルトンは、この後の3月3日に気球に乗って西へ飛んだヴィンフリート・フロイデンベルク(33歳)が西で落下して死亡したこと、4月16日に18歳前後と思われる氏名不詳の男性が溺死したことも追記している[111]

エドガー・ヴォルフルムは著書『ベルリンの壁』で「今日までベルリンの壁における犠牲者の正確な人数については確実な情報がない。」と述べている。しかし「ベルリンの壁の傍で亡くなった者は122人から200人」として「壁倒壊までに東ドイツから逃れようとして(ベルリン以外を含めて)死んだ人は1200人以上に上る」と推測している[24]:37。

クリストファー・ヒルトンは著書「ベルリンの壁の物語」で、氏名が明確な死亡者について、その越境の行動と死亡に至る状況について克明に記して、氏名不詳の者も含めて165人の被害者の状況を述べているが、その彼も「壁の犠牲者に関しての決定的な情報は得られないかもしれない。」と述べている。彼は1991年にドイツで発行された「Opfer der Mauer(壁の犠牲者)」から多くの情報を得たとしているが、しかしこの文書は東ドイツの事件に関する機密扱いであった公式報告書を用いて調査されたものであるが完全ではないとしている。ある文書では172名の死亡者の一覧があったが、ヒルトンは「全てが亡命を目指していたとは言い難い」として「28年間に亡命を試みて死亡した者の一部は西側に報告されず東側にも記録に残っていない可能性がある」また「誰にも知られずに溺死した者がいた可能性がある」「越境しようとして泳いだが誰にも気付かれず遺体となったが発見もされなかったことが考えられる」と述べている[112]。そして「私は全員の氏名を余さず記し、それぞれに人間らしい逸話を盛り込みたかったが、日付と簡単な説明だけを記すだけで精一杯であった。彼らの多くは無縁仏として埋葬あるいは火葬された」と語った[113]

1990年から2005年にかけてベルリンの壁で越境者を射殺した狙撃兵の裁判の訴訟文書によって解明が進んだとされて[24]:111、「死亡者数は合計192名」であったり、「少なくとも136名」[注 22]、「200人以上」[115]:145、「射殺されたは238名」[116]:364、「500人以上の人々が厳重に監視された境界で逃亡を試みて命を落とした」[117]:260、「壁を越えようとして射殺された人は700人を超えると言われている」[17]:215、「東西ドイツ及びベルリンの境界で命を落とした者は全体で943人にのぼる」[90]:490などの諸説があり、1961年から63年までの壁建設の初期の期間で把握していない部分があるとしている。
政治犯買取り

東西間の通行が遮断されて、越境が危険を伴うことから、1963年頃から西への逃亡援助が営利事業と化し「逃亡援助を生業とする連中」が牛耳るようになって、西ドイツ側の態度も変わったと言われる。


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