ベルリンの壁
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この演説は多くのベルリン市民やドイツ国民の心に残ることとなった[注 15]。この広場で行った演説は彼の政治活動のなかで最も成功したものだった[96]:231[注 16]

ケネディ暗殺後、この広場はジョン・F・ケネディ広場と改名された[16]:196。
その後

西ドイツのブラント首相の東方外交で、西ドイツとソ連、西ドイツとポーランド、そして東西ドイツの間で関係改善が進むと、ベルリン問題についても恒久的であれ暫定的であれ平和的に処理しようとする動きが1970年に入ってから活発になった。そして1971年9月3日に米英仏ソの4ヵ国協定が締結され、更に東西ドイツ間で細部の取り決めを合意し、翌1972年6月3日に発効した。この協定には東西ベルリンの地位は曖昧で、東ベルリンは「隣接する地域」と表現されてベルリン全体の問題には触れていないが、ソ連は東ベルリンに大使館を置きながら西ベルリンにも領事館を置き、暗黙のうちに西ベルリンが自己の勢力範囲であることを断念し、また西側3ヵ国軍の西ベルリンへの駐留、西ベルリンへの通行を認めた。一方西側は西ドイツと西ベルリンとが政治的には別の存在であることを認め、かつ東ベルリンを東ドイツの首都であることも認めた。これで戦後の東西ベルリンの間で未解決であった西ベルリンでの西側各国の駐留権、西ベルリンへの通行権が保障された[98]

さらに1972年に東西ドイツ基本条約が結ばれて、相互に対等な主権と領土を認め[注 17]、翌1973年に東西ドイツは同時に国連加盟を果たした。
東から西への亡命

東西ドイツの間で1961年から1988年までに総計23万5000人が「共和国逃亡」によって西ドイツに逃れた。そのうち4万人が国境の見張りをすり抜けて越境した者で、更にその中の約5000人余りがベルリンの壁を乗り越えた者であるが、その大部分はまだ壁の国境管理が甘かった1964年までの数字である[24]:104。東ドイツ側の国境超えの「逃亡未遂」に関する刑事訴訟の手続きは1958年から1960年までで約2万1300件、1961年から1965年までで約4万5400件であった。そして1979年から1988年までの「逃亡未遂」の有罪判決は約1万8000件であった[24]:105。これはベルリン以外の東西ドイツ国境での逃亡未遂も含めての数であり、ベルリンの壁を超えようとした未遂及びその準備をした者はおよそ6万人以上とみられ、有罪判決受けて、平均4年の禁固刑であった。そして逃亡幇助の計画準備の場合は実行者より重く終身懲役刑を科されることもあった。

東から西への亡命は、壁建設が始まっていない地点からいち早く抜け出した例、検問所の設備が整う前に強行突破した例、国境警備隊の監視網をかいくぐって奇跡的に亡命を果たした例、果たせず逮捕された例、射殺された例など、様々なエピソードを産んだ。特に壁の設備がある程度完成した1964年までの間に、脱走の試みは集中した[99]

ベルナウ通り[注 18]では道路と建物の間に境界線が引かれていたが、壁の建設が始まった時に事情をいち早く察知して逃亡した者以外は壁の建設部隊が到着するまで建物に住み続けていた。壁建設から1週間後の1961年8月19日、当局が通り一帯の住民およそ2000人に退去命令を出し、境界線(通りに面したドアと窓の目の前)にレンガを積み始めた。建物の2階に住んでいたルドルフ・ウルバン(47歳)は窓からロープを伝って降りようとしたが、その最中に警察が自室に入ってきたことで慌ててロープから手を放し、3mの高さから落下し、その後病院で死亡した。これがベルリンの壁での最初の犠牲者とされている[100]

同じくベルナウ通りの住人フリーダ・シュルツ(77歳)は、窓の下の地面消防隊が敷いた毛布に飛び降りようとしたが、部屋に踏み込んできた警官に両手を掴まれた。外で受け止めようと待ち構えていた西側の市民が彼女の足首を掴んで二人がかりで引っ張り返し、身柄を警官からもぎ離した。この場面は丁度この現場を通りかかったアメリカ特使団のヘムシング広報官が目撃して「非常に感動的な光景だった」と後に述べ、またこの場面を撮影していたフィルムはニュース映画に使われて有名な話となった[101]。最終的にベルナウ通り沿いの建物は廃屋となり、やがて爆破され、更地となった。東ドイツ当局は9月半ばまでに東ベルリン市民2665人を政治犯罪で連行した[102]。この政治犯の連行は、別に6000人以上が逮捕されその内3100人が刑務所に数年入れられたとする説がある[24]:38。

8月24日、ギュンター・リトフィンは、交通警官に呼び止められたのを無視して水路に飛び込んだが、撃たれて死亡した。ベルリンの壁建設後、最初の市民の殺害事件であった[24]:32-33[注 19]

1961年暮れに8両編成の列車の運転士が計画して、もう1人が線路のポイントスイッチを切り替えて、東側から西側につづく線路に進入して有刺鉄線を引き倒してすぐ西側の野原に停車した。この時に男性8人、女性10人、子供7人がそのまま西へ逃れ、事情を知らない他の乗客は東へ戻った[103][注 20]

1962年8月17日、ペーター・フェヒター(18歳)がチェックポイント・チャーリーのすぐ近くで越境しようとして撃たれた。その時はまだ息があったが、倒れた場所が壁の東側だったため西側にいた警官や米兵や報道陣、群衆は彼を救い出すことは出来ず、壁の上の鉄条網から救急箱を投げ入れるのが精一杯であった。そして東側は西側との衝突を恐れて監視所から動かず、彼はそのまま失血死した。この一部始終を目撃した人は多く、西ベルリンでは激しい抗議行動が起こった。彼はベルリンの壁の最も有名な犠牲者となった。37年後の1999年にベルリン市はこの場所にペーター・フェヒターの記念碑を除幕している[17]:214-215[24]:102-104[104]

1962年9月14日から15日にかけて29人がおよそ135メートルの地下トンネルを通って西ベルリンへ亡命。トンネル29として知られ、このトンネルを原作にしてフィクションのテレビ映画「トンネル」が作られた。

1964年10月に、トンネルを掘って57人が西へ逃れた。計画したのは西側の冒険家で工科大学の学生も含めて組織的に行われ、西からトンネルを掘り、東側では西の連絡員が手引きした大掛かりな脱出作戦であった。場所はベルナウ通りを挟んで西側のパン屋の地下室から3m下へ掘り、そこから145m進んで、ベルナウ通りの向こう側のある家の裏庭の今にも倒壊しそうな屋外トイレまで半年をかけて掘った。穴の縦はおおよそ70cmで、掘り出した土は西側のパン屋の部屋に積み上げていった。連絡員の間では同年の東京オリンピックにかけて「トーキョー作戦」と呼ばれた。1人は入口の見張りとして東側に合法的に入り東側の国境警備隊の動きを見張った。そして西側の連絡員が暗号電報を使って連絡を取り合い、越境を希望する者を探し、トンネルの入口付近の家に案内し、西側から双眼鏡で監視して尾行されていないことを確認してから無線で東側の家の中にいる者に連絡してドアを開けて家の中に入れた(この時の合言葉はトーキョーであった)。そして裏庭から屋外トイレに行き、便器を取り外して下のトンネルに入り、およそ11分から30分かけて西側のパン屋の地下室に達した。時間がかかったのは途中で水が深くなって息をするのが難しい地点があったことと、トンネルに入った人々は一様に恐ろしさに震え、泣き出す女性もいて、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}無遊状態[要説明]になって足取りが覚束ない人もいたからであった。それだけに脱出した後は激しい感情の波が押し寄せたとされている[誰によって?]。こうして10月3日に28人、4日に29人が西ベルリンに逃れた。内訳は男性23人、女性31人、子供3人であった。しかし5日朝にシュタージに発見されて、裏庭で撃ち合いとなり東側兵士が1人撃たれて死亡したが、西側の4人はトンネル入口のトイレから下へ通じ、そのまま西へ戻ることが出来た。この直後に東ドイツ政府は東西間の境界付近の保安活動は国家保安省(シュタージ)のみで行うことを決めた。この作戦行動は後に助かった57人から「トンネル57」として最も有名なトンネル脱出劇となった[105]

同じく1964年、米軍車両が東ベルリン地区で定期的に行っていたパトロール[注 21]に着目した東ベルリン市民が、ひそかに米軍車と同型の偽物を造り、これも本物と同じデザインの軍服を着た偽物の軍人が運転し、トランク内にそれ以上の人数が隠れて、本物の米軍車がパトロールを行っている最中に堂々と検問所を突破した。検問官も偽物の車両であることに気づかず、しばらくしてから本物の車両が戻ってきたときに押問答になってからことが発覚した[107]
鉄条網を飛び越えるコンラート・シューマンの写真をもとにしたグラフィティ

ドイツ民主共和国国境警備隊に従事する兵士の中からも、亡命者が続出し、ベルリンの壁建設直後の6週間で85人が逃亡した[108]。1961年8月15日に機動隊下士官コンラート・シューマンはルピン通りとベルナウ通りが交わる地点の国境線で逃亡を企てる者を阻止する任務についていたが、反対側の西側の多くの人々が見ている前で有刺鉄線を飛び越えて西へ逃れた。この兵士が有刺鉄線を飛び越えた瞬間の写真はその後『自由への飛翔』として有名なものとなった[24]:38[109]。1968年時点では、総勢8,000人で、ベルリン市民でなく西ドイツに親類がいない者が、「ベルリンの壁」担当の警備兵となっていた。逃亡防止のために2人一組で行動していたが、逆に逃亡を試みた側が同僚を銃撃することもあった。勤務中に射殺された警備兵は16人であったが、その半数は逃亡を図った警備兵の犯行であった[110]

ベルリンの壁を巡る最後の犠牲者は、1989年2月6日クリス・ギュフロイ(20歳)が最後とされている。


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