ベルリンの壁
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^ ダンチヒ(現在のポーランド領グダニスク)は、かつてプロイセン領内にあったがポーランドの海の玄関口であり、第一次世界大戦後にポーランドが独立を回復してドイツとポーランドの狭間となった際はどちらの国にも属さない自由都市ダンチヒとして存在したことを意識したもの。
^ この情報は当時は伏せられて西側には伝わらず、5年後の1966年8月に『デア・シュピーゲル』が伝えて初めて分かったことであった。
^ ウルブリヒトがこの時に強気に出たのは事実だが、フルシチョフがその要請に屈したとか、待つように求めたという言説は当時の東西冷戦時代の時代環境を理解すればあり得ない話である。これはベルリンに関する4ヵ国協定が存在する限り、東ドイツは何も出来ず、ソ連は米英仏3ヵ国との緊張関係の中でベルリンと関わっていて、一触即発で戦争状態も想定される状態の中で、むしろ東ドイツの動きを抑える立場であった。主導権は東ドイツが崩壊するまでソ連が握っていた。
^ キッシンジャーは、この時に別に文書をケネディに提出していた。その文書では、モスクワに対する強硬な意見をキッシンジャーも持っているが、外交を一切無視するようなアチソンの提言を無謀と断じた。そしてベルリン問題に対するケネディのスタンスに対しての警告を誤解の余地の無い内容で表現した。フルシチョフのベルリン自由都市構想(1958年)に対する中途半端さ、自由選挙に基づくドイツ統一を空想的と見なす考え方、アデナウアー首相を毛嫌いしていること、ベルリン問題についての関心不足が大西洋同盟に危機を生み出し、その結果で米国の安全上の利益を害する恐れがあり、西側諸国に深刻な影響を与えることなどを述べて「政策に関する如何なる考察も西側はベルリンで敗北などしていられないという前提から出発しなければならない」「大統領は西ベルリン市民の希望と勇気を維持するために、彼らに我々の信念が確実で実体的な証しを与えるべきだ」とした。しかし結局自分の意見が真剣に取り上げられることはない、と感じてこの年の10月にホワイトハウスのスタッフを辞任した[34]。キッシンジャーがホワイトハウスに国家安全保障担当特別補佐官として戻ってきたのは、それから8年後のニクソン政権になってからである。
^ 彼がこのレポートを出してすぐに西ベルリン支局から編集者が訪れたが、彼はその根拠を示せぬまま、東ベルリンで息をひそめながら注意深く周囲を観察していた。
^ アデナウアーは、この日が日曜日であったので、いつものように朝にミサに行っている。
^ ルシアス・クレイ。1948年に西ベルリンが東側に封鎖された時に、大空輸作戦で西ベルリンを守った功労者である。[75]:159
^ なお一部の無人地帯には電線があったが、これは警報装置への電源・信号ケーブルで、一部で言われたような高圧電流を流した剥き出しの金属線ではなかったとされている。
^ 『ベルリン物語』[17]では155kmとしているが、『ベルリンの壁』[24]では 160kmとしている。
^ ここで、ケネディはドイツ語で語っている。これはドイツ到着後にRIAS放送ディレクターのロバート・ロックナーとアデナウアー首相の通訳ハインツ・ヴェーバーから教わり、耳で聞いた通りにカードに書き込んでいた。そしてIch bin ein Berlinerも同じカードに書き込んでいた[93]
^ よくこの言葉は不定冠詞einを入れたので「私はドーナッツ菓子です」と言っているようなものだ、という指摘をして間違ったドイツ語だったという説を唱える向きがあるが、RIAS放送ディレクターとアデナウアー首相の通訳の2人と事前に話し合って、einを抜かすと「私はベルリン生まれである」という意味になって、かえって聴衆を混乱させるとして、この言い方になったという。聞いていた30万人の西ベルリン市民がその意味するところを理解したからこそ熱狂し、その表現に言語学的疑問を感じた者はいなかった[94]
^ 「ヒトラーもビスマルクもどの皇帝も王も、これほど多くの人々の熱狂に歓迎されたことはない」とワルター・H・ネルソンは著書「ベルリン子たち」で書いている。そしてこの時の迎える側のブラント西ベルリン市長は後に「これほどの歓喜の声に包まれた客人はベルリン史上に例があるまい」と自伝に書いている[16]:190-192。
^ その日の夜、大統領専用機でベルリンを後にアイルランドに向かった際に、機内でケネディはセオドア・ソレンセンに「われわれの人生で今日みたいな日は二度とないだろう」と語った[97]:280。
^ 国際法的な意味での国家承認ではない。エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」147P参照
^ あるいは「ベルナウアー通り」と表記する文献もある。
^ 壁崩壊後の1997年の「狙撃兵裁判」でリトフィンを射殺した警備兵は禁固1年6カ月の有罪判決を受けたが執行猶予付きであった。
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