ベルリンの壁
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^ NATO(北大西洋条約機構)の基になった条約で、前年1948年3月にイギリス・フランス・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクがブリュッセルで条約を結んで相互防衛の行動を約束し、このブリュッセル条約締結国に加えて、アメリカ・カナダ・デンマーク・アイスランド・イタリア・ポルトガル・ノルウエーの各国が相互防衛を規定した条約である。1952年にギリシャとトルコ、1955年には西ドイツが加わった[9]:61-62。
^ 西ドイツはこの事件への抗議の意を込めて、ブランデンブルク門から西に延びる通りを「6月17日通り」と改名した。東側は変わらずウンター・デン・リンデンと呼ばれた。
^ ダンチヒ(現在のポーランド領グダニスク)は、かつてプロイセン領内にあったがポーランドの海の玄関口であり、第一次世界大戦後にポーランドが独立を回復してドイツとポーランドの狭間となった際はどちらの国にも属さない自由都市ダンチヒとして存在したことを意識したもの。
^ この情報は当時は伏せられて西側には伝わらず、5年後の1966年8月に『デア・シュピーゲル』が伝えて初めて分かったことであった。
^ ウルブリヒトがこの時に強気に出たのは事実だが、フルシチョフがその要請に屈したとか、待つように求めたという言説は当時の東西冷戦時代の時代環境を理解すればあり得ない話である。これはベルリンに関する4ヵ国協定が存在する限り、東ドイツは何も出来ず、ソ連は米英仏3ヵ国との緊張関係の中でベルリンと関わっていて、一触即発で戦争状態も想定される状態の中で、むしろ東ドイツの動きを抑える立場であった。主導権は東ドイツが崩壊するまでソ連が握っていた。
^ キッシンジャーは、この時に別に文書をケネディに提出していた。その文書では、モスクワに対する強硬な意見をキッシンジャーも持っているが、外交を一切無視するようなアチソンの提言を無謀と断じた。そしてベルリン問題に対するケネディのスタンスに対しての警告を誤解の余地の無い内容で表現した。フルシチョフのベルリン自由都市構想(1958年)に対する中途半端さ、自由選挙に基づくドイツ統一を空想的と見なす考え方、アデナウアー首相を毛嫌いしていること、ベルリン問題についての関心不足が大西洋同盟に危機を生み出し、その結果で米国の安全上の利益を害する恐れがあり、西側諸国に深刻な影響を与えることなどを述べて「政策に関する如何なる考察も西側はベルリンで敗北などしていられないという前提から出発しなければならない」「大統領は西ベルリン市民の希望と勇気を維持するために、彼らに我々の信念が確実で実体的な証しを与えるべきだ」とした。しかし結局自分の意見が真剣に取り上げられることはない、と感じてこの年の10月にホワイトハウスのスタッフを辞任した[34]。キッシンジャーがホワイトハウスに国家安全保障担当特別補佐官として戻ってきたのは、それから8年後のニクソン政権になってからである。
^ 彼がこのレポートを出してすぐに西ベルリン支局から編集者が訪れたが、彼はその根拠を示せぬまま、東ベルリンで息をひそめながら注意深く周囲を観察していた。
^ アデナウアーは、この日が日曜日であったので、いつものように朝にミサに行っている。
^ ルシアス・クレイ。1948年に西ベルリンが東側に封鎖された時に、大空輸作戦で西ベルリンを守った功労者である。[75]:159
^ なお一部の無人地帯には電線があったが、これは警報装置への電源・信号ケーブルで、一部で言われたような高圧電流を流した剥き出しの金属線ではなかったとされている。
^ 『ベルリン物語』[17]では155kmとしているが、『ベルリンの壁』[24]では 160kmとしている。
^ ここで、ケネディはドイツ語で語っている。これはドイツ到着後にRIAS放送ディレクターのロバート・ロックナーとアデナウアー首相の通訳ハインツ・ヴェーバーから教わり、耳で聞いた通りにカードに書き込んでいた。そしてIch bin ein Berlinerも同じカードに書き込んでいた[93]
^ よくこの言葉は不定冠詞einを入れたので「私はドーナッツ菓子です」と言っているようなものだ、という指摘をして間違ったドイツ語だったという説を唱える向きがあるが、RIAS放送ディレクターとアデナウアー首相の通訳の2人と事前に話し合って、einを抜かすと「私はベルリン生まれである」という意味になって、かえって聴衆を混乱させるとして、この言い方になったという。聞いていた30万人の西ベルリン市民がその意味するところを理解したからこそ熱狂し、その表現に言語学的疑問を感じた者はいなかった[94]
^ 「ヒトラーもビスマルクもどの皇帝も王も、これほど多くの人々の熱狂に歓迎されたことはない」とワルター・H・ネルソンは著書「ベルリン子たち」で書いている。そしてこの時の迎える側のブラント西ベルリン市長は後に「これほどの歓喜の声に包まれた客人はベルリン史上に例があるまい」と自伝に書いている[16]:190-192。
^ その日の夜、大統領専用機でベルリンを後にアイルランドに向かった際に、機内でケネディはセオドア・ソレンセンに「われわれの人生で今日みたいな日は二度とないだろう」と語った[97]:280。
^ 国際法的な意味での国家承認ではない。エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」147P参照
^ あるいは「ベルナウアー通り」と表記する文献もある。
^ 壁崩壊後の1997年の「狙撃兵裁判」でリトフィンを射殺した警備兵は禁固1年6カ月の有罪判決を受けたが執行猶予付きであった。
^ この派手な逃亡劇はその後映画化されている。
^ 上述の通り、米英仏ソ4か国の軍隊は壁を越えて市内全域のパトロールを認められており、米軍はこの権利を誇示する目的で1日おきに昼間と夜間に4-5台が東ベルリンをパトロールしていた。このパトロールは、規定によりボンネットに国旗を立てていたため、「フラッグ・パトロール」と呼ばれていた[106]
^ 2009年8月にドイツ政府の委託で壁記念センターと現代史研究センターとが4年がかりで壁の死者について調査した結果を発表した。その発表では、1961年から1989年までにベルリンの壁を乗り越えようとして死亡した者は少なくとも136名に達したとしている[114]:260。2009年11月8日にNHKはニュースで放送している。
^ 【西ドイツは東ドイツ国民も本来は自国民であるとの考えから政治犯を「買い取って」いたため、東ドイツ国民であれば「壁を越える」という方法を採らなくても「西ドイツに行きたがる政治犯」として東ドイツ当局に逮捕されれば犯罪歴等がない限り、西ドイツに亡命できる可能性はあった。例えば検問所に行き「西に行きたい」と言って当局職員の説得を受け入れず逮捕されるとか、西行きの列車にパスポートなしで乗り込み国境でのパスポート検査で逮捕されるといった方法である。】 といった言説は、東側に《犯罪歴が無い限り》といってもこの行動自体で「逃亡未遂罪」の重大な犯罪に問われ、平均4年の禁固刑に処せられ、この逃亡を幇助した者にはより重い刑罰が科されること[24]:116からすれば、余りにも東ドイツの現実の厳しさを知らない話である。実際に起こったことではなく、政治犯の処遇の過酷さも分からないお粗末な話で、無知な妄言と言わざるを得ない。[要出典]
^ 【政治犯の一人当たりの買取価格は9万5,847マルク1977年以降。壁崩壊時のレートで約700万円)で、西ドイツは離散家族も含めて25万人を買い取り、計35億マルクを東ドイツに支払った[119]。】という言説は、単純計算で人数に誤りがあり、正確性を欠いている。
^ 【他にも東欧共産圏への複数回の旅行(許可制)を繰り返して政府を信頼させ西側への旅行許可を得て亡命したものもいるが、富裕層以外には不可能な方法である。また特に若い女性であれば、外国人との結婚により容易に国外への移住が可能であった。】という言説は滑稽な話である。そもそも社会主義国に富裕層は存在せず、党幹部でも簡単に外国へは行けない国であった。国内の旅行さえ不自由な国で外国人との結婚が容易である訳はなく、また結婚できても国外への旅行は申請しても簡単には許可がおりず、壁が東の人間を閉じ込めていたことを少しも理解していない話である。[要出典]
^ 正式には「ドイツ民主共和国政府及びベルリン参事会間の議定書」と呼ばれ、東西ドイツ間の協定ではない。東側が従来から西ベルリンは西ドイツと別個の政治単位であると主張していたためである。このため西ドイツ政府(アデナウアー政権)はこの通行証協定は東側の主張を認めるものであるとの懸念を隠せなかったが、ブラント市長は人道的措置であることを強調した。実際には、交渉の当事者である西ベルリン市から協定交渉の妥結をボンの西ドイツ政府に伝え、西ドイツ政府が閣議で了承した後にブラント市長宛てに通告してから協定を結ぶものであった[121]
^ 同一都市内に壁が建設された都市は、このベルリン以外にはメドラロイトだけであった。という言説があるが、正しくはメドラロイトは村であり、都市ではない。
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