ベルリンの壁
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封鎖が解除された直後の1949年5月23日、イギリス・アメリカ・フランス側占領統治地区ボンを暫定首都としたドイツ連邦共和国(西ドイツ)が、10月7日にはソ連占領統治地区にドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立、ベルリンが東ドイツの首都となった[8]:90。
スターリン・ノート

東西分裂後の1952年3月10日、のちに「スターリン・ノート」と呼ばれるソ連からの覚書がアンドレイ・グロムイコ外務次官から英米仏3か国の大使に手渡された。その内容は懸案になっていたポーランド西部国境(オーデル・ナイセ線)には触れずに、ドイツを再統一し、英米仏ソの占領軍は撤退、統一ドイツは独自の軍隊の保持を認めるが、その代わりに中立化するとした提案であった。このための平和条約を結ぶために米英仏ソのほかポーランド、チェコスロバキア、ベルギー、オランダ、ほかに対独戦に参加した諸国を参加国とするとして、その条約には7項目の政治的原則、領土、経済的原則、2項目の軍事的原則、そしてドイツと国際連合組織からなっていた。これはスターリンとしてはかなり譲歩したものであった[11]

翌日3月11日、西側陣営と西ドイツとで協議したが、ソ連の妨害工作として否定的な意見が出た。これは当時西欧で協議していた欧州防衛共同体(EDC)構想で、欧州統一軍に西ドイツの兵士を参加させる案が進められていることに対して、西ドイツの再軍備を阻む目的があったとされている。西ドイツのコンラート・アデナウアー首相も断固反対であったが、国内では与党内でも「検討に値する」との意見が出て、野党ドイツ社会民主党はこの覚書を再統一へ向けて建設的に活かそうとする意向であった[12]

スターリン・ノートは英米仏にとって最も真意がつかみにくい文書として、のちに議論が絶えなかった。3月25日にアメリカは覚書の回答を送り、国連委員会の管理下でドイツ全土での自由選挙を提案した。これに対し、4月9日にソ連は4か国の管理下での自由選挙の実施を提案してきた。5月13日に英米仏はこの提案には同意できない旨回答した。その理由は、4か国が裁判官にもなり党派を代表することにもなるため避けなければならないというものであった。5月24日、ソ連は業を煮やしてドイツ問題の協議を進展させたいとしながら、西ドイツの再軍備とEDCへの参加に強い非難をしている。この3日後にEDC条約が調印され、このスターリン・ノートは文書でのやり取りで終わった。アデナウアーはソ連のドイツ中立化の狙いは欧州のソ連圏への組み込みだと判断し、最初からスターリン・ノートをソ連の牽制だとして受け入れる意志はまったくなかった[13]
ベルリンへの通行問題

封鎖が収まっても、ベルリンの緊張状態は変わらなかった。とりわけ、最初にソ連・英米仏間で食い違っていたベルリンへの通行に関する問題は未解決のままであった。西ドイツから西ベルリンへ行くには東ドイツ領内の高速道路を通り抜けるか、西ドイツ国内の飛行場から英米仏の航空便を利用するしか選択肢はなく、西ドイツ独自に動くことはできなかった。

ソ連による西側への交通妨害は封鎖解除後も変わらず、1952年5月27日に西ドイツがEDCに加盟すると、西ベルリンへの交通網が再度遮断され、同時に東西ベルリン間および東ドイツとの電話回線も全部絶たれた。同日に西側は声明を発表し、ベルリンに対する攻撃は西側連合国に対する直接の攻撃とみなす旨を警告した。交通遮断はすぐに解除されたが、以降もたびたび遮断と解除を繰り返している。しかし、電話回線の切断はそのまま続行され、20年後の1972年にようやく解除された。

8月2日にはベルリンへの高速道路通行料に多額の道路税を課したが、9月20日に東西間の貿易協定が締結されたことによって解決された。この間には米軍の病院機がソ連機に妨害される事態や、1953年には英軍機がエルベ川上空でソ連機に撃墜される事件が発生している[14]。これらの問題は1961年夏のベルリンの壁の建設時に、米ソ首脳(ケネディ大統領とフルシチョフ首相)間で暗黙の了解で安定化し、1971年9月3日の4か国協定で法的な保障を得ている[15]
当時のベルリン

東西ドイツ国境(ドイツ国内国境線)は1952年に閉鎖されたが、ベルリンにおいて東西間の移動は壁の建設までは自由で、通行可能な道路が数十あったほかに、ベルリン地下鉄(Uバーン)や高速鉄道(ベルリンSバーン)などは両方を通って普通に運行されていた。境界を越えて通勤する市民も多く、1950年代の時点で東から西の職場へ行っている者が約6万3,000人で、逆に西から東の職場に行っている者が約1万人いた。この時代は西のマルクのヤミ値が東の4倍だったため、西で稼いで東に暮らすと生活は楽であった。それ以外の一般的な往来も多く、1日あたり約50万人が東西境界線を通過していたといわれる[16]:160。このため、周囲を全て東ドイツに囲まれた西ベルリンは「赤い海に浮かぶ自由の島」、「自由世界のショーウィンドー」と呼ばれた。

西ベルリンと西ドイツとの間の往来は、指定されたアウトバーン、直通列車(東ドイツ領内では国境駅以外停まらない回廊列車)、および空路により可能であった。東ドイツを横切る際の安全は協定で保証されたが、西ベルリンに入れる航空機は英米仏のものに限られた。

東ドイツ・西ベルリン間の道路上の国境検問所は3か所あり、NATOフォネティックコードでA(アルファ)、B(ブラボー)、C(チャーリー)と呼ばれた。Cは「チェックポイント・チャーリー」の別名で知られ、特に有名な東西冷戦の舞台の一つとなった。
亡命と頭脳流出

ドイツの東西分裂以降、時が経つにつれ、東ドイツのドイツ社会主義統一党の一党支配に基づく社会主義体制に不満を持つ人々の西ドイツへの逃亡が相次いだ。1952年に東西ドイツの国境線が閉鎖されて以降は唯一往来が自由であったベルリン市内の境界線を経由して逃亡するようになり、全難民に占める割合は4割以下から6割台に上昇した[16]:161。

毎年15万から30万人の東ドイツ国民が西ドイツに大量流出した。特に1953年は、6月17日に東ベルリンで反政府暴動が起こりソ連軍の介入で鎮圧された(ベルリン暴動)影響で、年間亡命者は東西分裂期で最多の33万人にのぼった[8]:100[注 3]。1949年から1961年までの13年間に273万9,000人が東ドイツから西ドイツへ流出したとされ、これは東ドイツの人口の約15パーセントにあたる[17]:195。特に医師や技術者・熟練技術者の頭脳流出は東ドイツ経済に打撃を与え、しかも25歳以下の若者が多かった[8]:99。これは当時の東ドイツの人口の6人に1人の割合であり、戦後の1945年から1948年までにソ連占領地区から西側3か国占領地区へ逃れた人を含めれば300万人に達したと見られている[18]

壁が建設された1961年は、6月のウィーン会談(後述)で米ソ首脳が対立、6月末までの半年間の総数は10万3,159人(うち49.6パーセントが25歳以下の若者)であったが、7月に流出者が跳ね上がって総数は3万415人(25歳以下は51.4パーセント)にのぼった。そして8月に入って最初の1週間だけで1万人に達するなど、人口流出は史上最高のペースに達していた[19]

この間の東ドイツから西ドイツへの難民総数の推移の公式の数字は以下の通りである[16]:161[20]

年難民総数西ベルリン経由25歳以下の割合
1949-1951年492,681193,227データなし
1952年182,393118,300データなし
1953年331,390305,73748.7%
1954年184,198104,39949.1%
1955年252,870153,69749.1%
1956年279,189156,37749.0%
1957年261,622129,57952.2%
1958年204,092119,55248.2%
1959年143,91790,86248.3%
1960年199,188152,29148.8%
1961年207,026150,48149.2%
(壁建設以前)(155,402)(125,053)
(壁建設以後)(51,624)(25,428)

1961年の時点で、東ドイツの人口は約1,700万人、西ドイツの人口は約6,000万人であった[18]

また、東ドイツ領域も自国領土とする立場をとっていた西ドイツは、東ドイツ国民にも自国籍を認めていたため、西ドイツに移った東ドイツ国民には、自動的に同国の市民権が与えられた。こうした措置も人口の流出を促したとされる。
壁の建設に至るまで
フルシチョフの非武装自由都市化宣言

1958年11月27日、ソ連のフルシチョフ首相が西ベルリンを半年以内に非武装の自由都市にする通告を行った。これは西ベルリンを東西ドイツのどちらにも属さず、どちらからも干渉を受けない地域にすることを述べたうえで、6か月以内に東ドイツとの間に英米仏ソの4か国とで協定を結ぶ、それができない場合は米英仏ソの4か国がベルリン問題に関して持っている契約および権利は失効するとした。

これは「戦後の4か国協定(ポツダム協定)をことごとく反古にし、ベルリンに関する協定は守っているがそれを悪用し、承認もしていない東ドイツの領空領内を通って西ベルリンとの交通・通信に使用している。しかも西ドイツをNATO(北大西洋条約機構)に加盟させドイツ統一を妨げている。このような異常な憂慮すべき状態を解決するために、西ベルリンをいかなる国の干渉も受けない自由都市にすること、西側軍隊は半年以内に撤退する、その合意がなければ、東ドイツは独立国家として陸路、水路、空路のすべてに関わる一切の権利を行使する、そして以後ベルリンに関する問題について米英仏との接触は一切終結する」ということが提案理由であった[21]

フルシチョフが西ベルリンの変則的な状況を打開する決意をしたのは、専門知識や熟練技術を持つ人材がベルリンを経由して流出し続ける限り東ドイツの経済が逼迫し続け、東ドイツがソ連の安定した同盟国にはなり得ないと判断したためであった。そして英米仏がベルリン問題で核戦争のリスクを冒すことはないだろうと読んで、最大限ソ連が妥協したとしてベルリンを国連監視下で非軍事化することを狙っていた[9]:100-102。


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