エゴン・クレンツ新書記長はホーネッカーが設立した自由ドイツ青年団議長を務めた人物で、ホーネッカーの子飼いの部下であり、この時にホーネッカーに反旗を翻したものの、国民はおろか社会主義統一党の党員達からでさえ信頼されていなかった[48]。クレンツが直面したのはこの信頼性の欠如であった。5月の自治体選挙における不正の中心的責任者であり、市民デモへの警察の鎮圧の直接の責任者である治安担当書記であったためである[49]。
しかも一党独裁制の枠の中で緩やかな改革を行おうと思っていたクレンツは、書記長に就任してすぐに驚くような報告を受けた。国家計画委員長ゲアハルト・シューラーから国家財政の破滅的な状況について知らされたのである。負債額は直近15年間に12倍に膨れ、年間100億マルクのペースで増えており、粉飾決算を繰り返して西側の融資を得ていた。これが明らかになれば東ドイツの評判は落ちると同時に、差し迫った問題としては次の利払いに充てる資金が無く、西ドイツからの短期融資の支援が必要であるとのことであった[50]。破綻の危機は目前にまで迫っていたのである。
クレンツは11月1日にモスクワを訪問してゴルバチョフと会談、金融支援を懇請したが「我々は支援を提供できる立場にない。ソ連に支援を頼るべきでない」と固辞された。そしてデモで揺れる国内の情勢から「大衆デモが壁を突破しようとする可能性があり、警察が介入し一定の緊急事態も想定される」とクレンツが発言すると、ゴルバチョフは政治的恐喝と受け止め、「ソ連の軍事的支援を期待することはできない」「国民の大量出国と壁の問題はあなた方が解決すべき問題で、すぐに解決しなければあなた方に大変な問題が起こる」と返答、クレンツは何の成果もないままベルリンに戻った[51]。
また、チェコスロバキアとの国境が11月1日、わずか3週間の閉鎖を経て再び開放され、3日に東ドイツとチェコ政府とで協定を結び、再びビザなしでの旅行を認めチェコと西ドイツ国境の開放を承認した。チェコスロバキア当局は身分証明書の提示しか求めなかったことから、再び膨大な数の東ドイツ市民がチェコ経由で西ドイツに脱出を始めた。このルートで僅か3日間で5万人以上が東ドイツを離れ[52]、プラハの西ドイツ大使館に流れ込んだ[注 7]。
11月4日に、首都の東ベルリンでもアレクサンダー広場で百万人以上が言論・集会の自由を求める大規模なデモ(ドイツ語版)が起こり[53]、東ドイツ政府は根底から揺さぶられる事になった。もはや混乱は収拾が付かない状態に陥っており、クレンツ政権も十分に状況を把握できなくなっていた。
東ドイツの空洞化政治局員の行動を求めるデモ(1989年11月8日)
この年の11月までに東ドイツを離れた市民は約25万人に上り、労働者不足により残った市民の生活にも支障が生じるようになった。特に30歳未満の若者が大量に脱出しており、ライプチヒでは市内のバス運転手の半数が出国したため退職者が職場に復帰し、軍の兵士もバスの運転に動員された。
さらにトラックの運転手が国外に脱出したために食料品や生活必需品などの物流が滞って倉庫に山積みになっていた。鉄道もブレーキ係や配電盤担当、機関士まで出国したため運行に支障が生じた。
暖房や水道といった公共インフラも市の担当者が消えたため使い物にならず、医師や看護婦が大量に退職して閉鎖寸前に追い込まれる病院もあった[54]。
「旅行許可に関する出国規制緩和」の政令作成SEDの党員達にスピーチを行うクレンツ書記長(1989年11月8日)。クレンツの右にいるのがシャボフスキー。
11月6日、東ドイツ政府は新しい旅行法案を発表した。この法案では西側への旅行は許可されるとしたが、しかしそれは年間30日以内と限定された上に出国の際には相変らず国の許可を要することや「特別な社会的要請があった場合」には許可が取り消されるなど様々な留保条件が付けられていたため[55]、翌7日に既にそれまでのように党の決定に対して従順では無くなっていた人民議会によって否決された[56]。議会の否決を受けてクレンツ書記長らは新たに暫定規則(政令)で対処することにした[57]。同日、政府閣僚は全員辞職した[58]。
11月8日から開かれた党の中央委員会で政治局員もいったん全員が辞任し、ヴィリー・シュトフ首相やエーリッヒ・ミールケ国家保安相らの引退と改革派のハンス・モドロウらの政治局入りが決定し、ハンス・モドロウを後継の首相に任命することが決まった[注 8]。
この後ようやくクレンツは、東ドイツ国内の世論に押される形で党と政府の分離、政治の民主化、集会・結社の自由化、市場原理の導入などの改革を表明した[59]。しかしこの日から行われた中央委員会は混乱していた。出席者からは工場で怒った労働者が党に反抗し始めていることが報告され、さらに各地で起きているデモへの対応などを巡って中央委員会の出席者たちはお互いを非難し、罵り合うような状態であった。党は自己批判と相互告発の猛威にさらされて力を使い尽くしていた[60]。 この日、前日からのドイツ社会主義統一党中央委員会第10回総会の混乱は続いていた。経済学者ゲアハルト・シューラー この日までにクレンツ党書記長は恒久的出国(出典によって国外移住・永住出国・常時出国とも呼ばれている)を認める新しい政令を作成するように指示しており、この日の朝から内務省内に設けられた、内務省と国家保安省(シュタージ)の4人からなるこの作業チームで作業が進められていた。本件に関する目下の問題は、チェコのプラハに滞留している東ドイツ難民の処理であった[55]。 当初の案は永住出国の希望者を対象としたもので、西ドイツの親類に会ったり、短い休暇を取ったりするための一時的に越境をしたい人は含まれていなかった[62]。しかしこの作業チームの一人である内務省旅券局長ゲアハルト・ラウターが後に語ったところでは、永住出国は認めるが一時的な外国旅行は認めないという施策は、例えば西側に移り住むのはできるが普通に旅行することはできない(戻って来ない永住出国であれば認めるが、戻ってくる外国旅行であれば認めない)ことになり矛盾し整合性に欠けていて、現実的には不可能なものと考え直し[注 9]、土壇場で規定が書き直された。手続きを簡略にして、個人的な旅行も申請さえすれば認めてその後の再入国もできるようにする、という結論であった[注 10]。最終草案では壁の開放は宣言していない。ただ「パスポートとビザを有する者は誰でも東ドイツと西ドイツ及び西ベルリン間の国境検問所を通過して、永久にあるいは一時的に国を離れることができる」と述べて、そのために東ドイツ国民は出国許可を申請しなければならない、として国の一定の管理を担保するように考えられた案であり、壁の存在は自明のものとされていた。そして明日、11月10日金曜日に発効する、と草案は明記していた[62]。 この新しい政令案は12時に中央委員会の会議に届いた[63]。 午後3時過ぎ[注 11]、クレンツは中央委員会で前日から続く非難の応酬戦を中断し[64]、「旅行許可に関する出国規制緩和」の政令案を読み上げた。
1989年11月9日
旅行に関する政令の作成
1. Die Verordnung vom 30. November 1988 uber Reisen von Burgern der DDR in das Ausland (GBl. I Nr. 25 S. 271) findet bis zur Inkraftsetzung des neuen Reisegesetzes keine Anwendung mehr.
2. Ab sofort treten folgende zeitweilige Ubergangsregelungen fur Reisen und standige Ausreisen aus der DDR in das Ausland in Kraft:
a) Privatreisen nach dem Ausland konnen ohne Vorliegen von Voraussetzungen (Reiseanlasse und Verwandtschaftsverhaltnisse) beantragt werden. Die Genehmigungen werden kurzfristig erteilt. Versagungsgrunde werden nur in besonderen Ausnahmefallen angewandt.