ベルリンの壁崩壊
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この他に西ベルリンを含む東西ドイツ国境沿いで8カ所のテレビ塔を立てて東ドイツ国内に自国のテレビ番組が見られるように電波を飛ばしていて[注 22]、南東部のライプツィヒやドレスデン一帯には地上波は届かなかったが(その代わりパラボラアンテナで衛星放送が受信できた)、およそ東ドイツの7割近くが受信可能であった[83]

この11月9日夜の記者会見の模様は、東ドイツ国営テレビニュース番組において生放送されていた。東ベルリンも西ベルリンのテレビ電波が受信できるので東西市民は互いのテレビ番組を視聴することが可能であった。

またラジオも同様であった。西ベルリン市内に中継局が存在する西ドイツのラジオ局の他、夜になると電離層反射で遠くイギリスやスウェーデンの放送も受信することができた。短波放送に至ってはアメリカ合衆国日本のものさえ受信可能のケースがあった。

そしてこれを見ていた東西両ベルリン市民は戸惑い半信半疑となった。この発言が出た時、時刻は午後7時を少し回っていたが、それから4分後にはロイター通信ドイツ通信(DPA)・AP通信の各通信社は速報を出した。混乱してロイター通信とドイツ通信は『旅行に関する新しい取り決め』があった事実に重きを置いた打電であったが、AP通信は「境界が開かれる」と打電している[84]。7時17分にZDFがニュース番組「ホイテ(今日)」で放送し、7時30分からの東ドイツ国営テレビのニュース番組「アクトゥエレ・カメラ(今日の映像)」では2番目にこのニュースを伝えた。ただどちらも「旅行に関して新しい規則ができた」と報じただけであった。

しかし7時41分にドイツ通信(DPA)は「西ドイツと西ベルリンへの境界が開いた」と打電し、そして午後8時に西ドイツのARDがニュース番組「ターゲスシャウ」で冒頭にアンカーマンのハンス=ヨアヒム・フリードリッヒが「今日11月9日が歴史的な日となりました。東ドイツが国境を開放すると宣言しました。」と報道した[85]。またほぼ同時刻に、記者会見の場で質問に立ったアメリカNBCのトム・ブロコウ記者が、ブランデンブルク門の所にある検問所付近の壁を前にして「これは歴史的な夜です。東ドイツ政府がたった今、壁の向こうへ通行できると宣言しました。何の制限も無しです。」とNBC放送の電波に乗せて全米にレポートした[86]
国境検問所

東西ベルリン間の国境検問所は、ボルンホルム通り[注 23]・ショセー通り・インヴァリーデン通り・フリードリッヒ通り[注 24]・ハインリッヒハイネ通り・オーバーバウム橋・ゾンネンアレーの7カ所あったが、やがて検問所の前に市民が集まり、通過しようとする市民と政府から何も指示されていない国境警備隊との間でこの記者会見でのシャボフスキーの発表を巡りトラブルが起きた。西側でも、「旅行が自由化される」というニュースに驚いた市民が殺到していた。

国境警備隊は指令を受け取っておらず、隊員は報道も知らなかったためにすぐに対応はできなかった。当時、各検問所は保安上の理由(集団亡命の抑止)により保安所同士の横の連絡はできないようになっており、業務上の連絡は必ず上部機関の指示に従うことになっていたが[87]、指示をすべき上部機関が内務省から何も指示が無く対応方針が出せなかったため、各検問所は総体として何が起こっているのか全く把握できなかった。結局、現場の責任者の判断でそれぞれ独自に対応することになり、最終的になし崩し的にゲートが解放されるに至った。
午後7時

記者会見の様子がテレビで放映されると間もなく、検問所付近に多くの東西ベルリン市民が集まり始めた。

この時、ベルリン北部のボルンホルム通りの検問所のパスポート審査官[注 25][注 26]のハラルト・イエーガー司令官[注 27] はシュタージにも所属していたことがあるが、たまたまこの日は朝6時から勤務に入り、24時間の勤務体制で、夕方6時から検問所の近くの食堂で夕食を食べていた時にシャボフスキーによる旅行及び国外移住(恒久的出国)の自由化の発表を耳にして仰天した。イエーガーはシャボフスキーの発言を聞いて急ぎ検問所に戻った[90]。イエーガーが戻った午後7時15分には、この時点で既に市民10人が集まっていた。すぐに上官に電話で問合せると、その上官は「これまでの人生でこんな馬鹿な話は聞いたことがない」と言い、「少し待て。何もしないで待て」との返事であった。電話を終えて外へ検問所の前に行くと、50?100人に増えていた。まだ午後7時30分を回った時点であり、まだ7カ所の国境検問所付近を合わせても数百人単位であった[91]

フリードリッヒ通りの通称チェックポイント・チャーリーの東側に勤務するギュンター・モル[注 28] 司令官[注 29] は、夕方に勤務を終えて自宅に戻り、夕食を食べながらテレビでシャボフスキーの発表を聞いたが、冷静に考えて然るべき手順を踏んで法的に解決した後に翌日か翌々日に指示があると思った。そして特に急ぐ必要はないと考えた[92]。7時30分に検問所からすぐ西側の喫茶店のウエートレスと男性1人が境界線を越えて警備兵に「一緒に飲もう」と誘い、断ったので西へ戻ったと報告があった。彼はまだ深刻な状況とは思われなかったのである[93]。一方、チェックポイント・チャーリーの西側の警備責任者のバーニー・ゴデック米軍少佐は、勤務を終えてダーレム地区にある自宅で夕食中に、地元のメディアが検問所に集まってきている、東側が国境を開くらしいと部下から電話で連絡を受け、上司の政治・軍事担当顧問官のジョン・グレートハウス大佐と共に検問所に向かった[94]

イギリス軍憲兵隊のクリス・トフト軍曹(36歳)は、この時オリンピックスタジアム[注 30] の英軍兵舎の中央管制室にいたが、7時42分に上司のワトソン大佐から電話があり、BBCワールドサービスが東側が国境を開くと報道しているとの連絡であった。急ぎ通訳を使って東ベルリンの警察に問い合わせると「分からない」という返事だったため、市当局に問い合わせると「夜半に開かれる」との返事があった。トフトは西ベルリン駐在のイギリス憲兵隊全部隊に東ドイツ人の西ドイツへの渡航が解除された旨通達した。そしてこの時にデスクの上で記録用紙として使っていた罫紙に『1942(19時42分)ワトソン大佐から電話あり。BBCの報道で東ドイツ人の西への渡航制限が解除されるとのこと。全部隊に通達。』と記した。[95]。トフト軍曹は、その後この持ち場を離れず、無線から聞こえてくる声に耳そばだてて、チェックポイント・チャーリーの動きを見ていた。
午後8時

ボルンホルム通りの検問所の外には午後8時には数百人に膨れ上がっていった。この時に東側の多くの市民が見る西ドイツのテレビ局ARDのニュースで、国境が開かれると報じたと伝えられた[96]。イエーガーは再び上官に電話した。上官は新しい指示がないので群衆を帰らせた方がいいとの返事であった。西側のテレビ局でこの時サッカーの試合を中継をしていた局があったが、この中継にニュース速報が入った。「壁が開き、数千人が検問所を目指して行進している。」との報道であった。東でも西でも、人々が動き始めていた。

ボルンホルム通りの検問所は、ベルリンの中心に位置するチェックポイント・チャーリーとは周囲の事情が違い、7つの検問所の中で最も北に位置して、広大な住宅地帯からすぐに歩いて来られる場所であり、高いアパートの建物からは眼下に見下ろせる検問所であった。午後8時30分を過ぎる頃には数百人が数千人に増大していた[97]。警察官が来て市民に立ち去るように求め、まず警察署に行って海外旅行に必要な書類を申請するように説明した。一部の市民は言われたとおりに警察署に出向いたが、警察署側も政令に基づいた対応の準備ができておらず、窓口で要領を得ない返事しかできなかったため、市民は立腹して検問所に戻ってきた。イエーガーはほぼ20分おきに上官に電話して指示を仰いだが返事は同じで「新しい指示はない。じっと待機していろ」であった[98]

一方、ベルリン市の中央部にあるチェックポイント・チャーリーでは地下鉄の駅に近いため群衆が続々と集まっていた[99][注 31]。但し、これは西ベルリンの市民であり、ここでは東側よりも西側の市民が多数押しかけて、ボルンホルム通りの検問所とは違い、西側市民が境界線を越えようとしたりした。午後8時に検問所の東側出入り口の前には数人が立っていた。

この検問所は西側の軍関係者がノーチェックで通過できるただ一つの検問所であり、また西ベルリン駐在の米英仏の3ヵ国の軍は4ヵ国協定で東ベルリンへのパトロールが認められており(フラッグパトロール)[注 32]、この夜もアメリカ軍将校は事態把握のため東ベルリンにチェックポイント・チャーリーを通って巡回していた。したがって東側市民のこの一帯への立ち入り規制は厳しく、無断で少し入っただけで「国境地帯への不法侵入」として刑事犯罪に問われかねない「外国人専用」の検問所であった。そのため東側出入り口付近は数人程度であったが、監視塔からは見えないが、脇道や路地に次第に集まり、既に数百人が検問所の遠くで待機していた。


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