ベルリンの壁崩壊
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

^ H・A・ヴィンクラーは、これによって「11月10日という報道解禁日」は事実上なくなったと述べている。また閣僚評議会から発表すべきとの内相の発言は政令が「閣僚評議会議長令」だからであることが、その理由であった。そうであればシャボフスキーは政府スポークスマンとして閣僚評議会の発表を行ったことになるが、実は閣僚評議会のスポークスマンは別にいたことになっている。ただしこの記者会見の場での他の発表内容は中央委員会での討議内容であった。
^ 党中央委員、政治局員、ベルリン地区委員会第一書記(党のベルリン支部長)、人民議会議員。元ジャーナリスト(党機関紙「ノイエス・ドイチュラント」編集長)で弁舌が巧みであったため、マスコミや在野団体に応対する役割をしていた[70]
^ 中央委員会が行われた党本部から、この各国の記者が集まった会見場(国際記者会館)までは、直線距離でわずか200?300mの近さであったが、道路を走るため公用車を使っていた。シャボフスキーは移動中に文書に目を通そうとしたが、公用車の車内が暗いためよく読めなかった。
^ 但し資料によっては100人の記者が出席していたとするものもある。
^ イタリア人記者リッカルド・エールマン(Riccardo Ehrmann)が2009年4月16日に放送されたドイツARDテレビの番組で明らかにしたところによれば、この会見の前にエルマンと面識があった社会主義統一党の大物から電話があり、取材する際に出国規制の緩和について必ず質問するよう念を押したという“「ベルリンの壁」崩壊の陰に謎の電話、ドイツ”. 2009年6月10日閲覧。。但しエールマン自身はこの報道を否定しているという情報もある。
^ それぞれ出典が違うが、前後関係からシャボフスキーの言い方はこのような流れであったと思われる。
^ もっとも、当時の東ドイツは閣僚会議が全く形ばかりの組織であり、中央委員会が閣僚会議より上位に位置していた。シャボフスキー自身がアンドレーア・シュタインガルト著「ベルリン?記憶の場所を辿る旅?」への寄稿で明かしたところでは、彼が記者会見に持っていった文書は政府通達の草案で、新しい旅行法が不十分で抗議の動きが強まっていたために政令の発表を急ぐ必要があって、「我々の決定について政府は何も知りませんでした」と述べている(アンドレーア・シュタインガルト著「ベルリン?記憶の場所を辿る旅?」136-140P 参照)。ましてこの時点ではシュトフ閣僚評議会議長(首相)が前日に解任されて事実上内閣が存在しない状態であったことから(後任のモドロウの正式就任は13日)、シャボフスキーは勘違いというより、形だけの閣僚会議のことは全く考えていなかったと解される。
^ この質問をしたのは、エールマンでなくアメリカNBC放送のトム・ブロコウ記者であるとヴィクター・セベスチェンは書いている。ヴィクター・セベスチェン著『東欧革命1989 ソ連帝国の崩壊』509-510P
^ この時の映像がARDターゲスシャウのサイト内で公開されており、シャボフスキーの発言を聞くことが出来る。→"Sofort, unverzuglich"(ARD tagesshau)
^ この言葉は、他に「私の知る限りでは、今からすぐにです」[81]、「私が知っている限りでは、即座に遅延なくです」(グイド・クノップ著「ドイツ歴史図鑑」壁の崩壊 260P)、「私が承知している限りでは、直ちに遅滞なく発効します」[82]と訳されている。
^ ベルリンでは電波が相互にスピルオーバーするため、という言説は正確ではない。余分に電波が飛んでいる状態ではなく、政治的に対立している地域ではお互いに電波が遠くまで届くようにするもので、東西ドイツ間では相互に認めている状態である。それが自由主義の宣伝にもなり、東ドイツの人々は西側の番組を知っていた。
^ 「ボルンホルマー通り」と表記する資料もある。
^ 通称チェックポイント・チャーリーとして有名であり、1961年10月に米ソで戦車を動員にして対峙した所であり、また西側3ヵ国の軍関係者はここだけ通過が認められている検問所である。
^ 国境検問所には直接窓口で対応するパスポート審査官と、外で保安活動を行う国境警備隊とは現実に任務が分かれていた。国境警備隊はあくまで検問所の外側でのいわゆる治安維持を含めた規制などの警備を行い、パスポート審査官は検問を通過する者のチェックや認証などの窓口業務を取り仕切った。そしてこのパスポート審査は国家保安省(シュタージ)の管轄であり、市民が出入りする場所である検問所の全ての責任はこのパスポート審査官が負っていた。従って現場での最高責任者は国境警備隊ではなく、パスポート審査官であった[88]
^ ただし、異説として、この11月9日夜に限って各検問所のパスポート審査の責任者全員が内務省の会議に呼び出されていたために、この夜は各検問所も副官が留守を守っていたとして、決断を下すべき本来の責任者はどこの検問所にも居なかったとしている。残っていたメンバーで一番経験の長い者がこの困難な状況下で歴史的な決断を下す夜になったことになる[89]
次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:226 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef