ベルリンの壁崩壊
[Wikipedia|▼Menu]
やがて東西の対立とともに1949年に東西2つの国が成立して、ドイツ民主共和国(東ドイツ)は、ソ連からの大きな経済援助と軍事力で社会主義国として東側陣営に属し、西側陣営に属するドイツ連邦共和国(西ドイツ)とで、ドイツは分断された。そして首都ベルリンもソ連側管理地区の東ベルリンと英米仏3ヵ国管理地区の西ベルリンに分断された。ただし1961年夏まではベルリン市内での東西の往来は自由であった。

しかし1961年8月13日に突然東ドイツ側がベルリン市内の東西の往来を遮断し境界線近くに壁を建設して、ベルリン市民の東西間の自由通行はこの日に断絶された(ベルリンの壁)。これは東西に分かれて以後東ベルリンから西ベルリンへの人口流出が止まらず、1945年から1961年までに東ドイツから西ドイツに移った人々は約300万人に達し、その半数以上が当時自由に行けた西ベルリン経由で西ドイツに逃れていた。危機感を持った東ドイツは西ベルリンが逃亡への出口になっていることから、西ベルリンを壁で塞ぎ東ドイツ国民を閉じ込めるために建設したもので、これを「反ファシズム防壁」と呼んだ[1]。国境が遮断されて有刺鉄線が張り巡らされたが、ある所では道路の真ん中に、或いは運河が、また橋の真ん中が国境線であった。以後東西のベルリン間での市民の行き来は不可能となった。

ベルリンは第二次世界大戦後の東西冷戦の最前線であり、1961年8月に突然出現したこのベルリンの壁は東西冷戦の象徴であった。
壁の犠牲者

しかし西へ逃れるために壁を乗り越えて越境しようとした市民が死亡する悲劇は後を絶たなかった。1961年8月から1989年11月までの28年間で5000人以上が越境して逃れ、約200人以上が越境できずに命を失い(その多くは国境警備兵による射殺と河を泳ぎきれずの溺死であった)、約3000人以上が越境を試みて失敗し逮捕された[2]

東西ドイツの間で1961年から1988年までに総計23万5000人が「共和国逃亡」によって西ドイツに逃れた。そのうち4万人が国境の厳重な見張りをすり抜けて越境した者で、その中の約5000人余りがベルリンの壁を乗り越えた者であるが、その大部分はまだ壁の国境管理が甘かった1964年までの数字である[3]。東ドイツ側の国境超えの「逃亡未遂」に関する刑事訴訟の手続きは1958年から1960年までで約2万1300件、1961年から1965年までで約4万5400件であった。そして1979年から1988年までの「逃亡未遂」の有罪判決は約1万8000件であった[4]。これはベルリン以外の東西ドイツ国境での逃亡未遂も含めての数であり、ベルリンの壁を超えようとした未遂及びその準備をした者はおよそ6万人以上とみられ、有罪判決を受けて、平均4年の禁固刑であった。そして逃亡幇助の計画準備の場合は実行者より重く終身懲役刑を科されることもあった。

壁が破壊されるまでの間、東ベルリンから壁を越えて西ベルリンに行こうとした住民は、運よく西へ逃れた人以外は東ドイツ国境警備隊により逮捕されるか、射殺されるか、或いは途中で力尽きて溺死か転落死であった。
壁の意味

壁の建設は、東ドイツの体制が強制に依存しており、住民が国土を離れることを暴力によって妨げる以外にその崩壊を回避できないことを示すもので、ソ連がヨーロッパの前進地であるドイツを放棄するつもりが無く、その崩壊を手をこまねいて見ていることができないことを証明した。そしてこの措置は西側に対決するものでなく、東ドイツ人にとっての利益に対立するものであった[5]。そしてソ連のフルシチョフ首相とアメリカのケネディ大統領の間で、暗黙の了解として、西ベルリンの米英仏3ヵ国の駐留権、及び西ベルリンへの自由通行権、西ベルリン市民の政治的自己決定権を侵さないことを前提にした壁の建設であった。それまで米ソ首脳を悩ませたベルリン問題は、1958年のフルシチョフの自由都市宣言の最後通牒の主張から大きく後退して、以降安定し固定化した。

それは東ドイツの人々にとって、以後東ドイツを離れることができなくなり、彼らの不自由はもはや逃れることのできない運命となったことを意味した[6]。また体制に反対する人々の大半は脱出して、単に労働力の流出を防止しただけでなく、現在の状況と折り合っていく道を選ぶしか無いという意識を人々に与えたことの影響は大きく、ドイツ社会主義統一党(SED)にとっては国家運営がしやすい環境が整備された[7]
東ドイツの苦境

ソ連は東ドイツの創設者であり、長年にわたり事態発展の成り行きに影響を及ぼし、東ドイツの存続の生殺与奪権を握っており、壁崩壊で東ドイツが消滅するまでそうであった。東ドイツが国民を実質的な監獄体制下におき、本質的に抑圧に基づいていたことは、鉄のカーテンベルリンの壁によって物理的な力で国の安定を保障し、それに依存していたことから明らかで、政治的には破綻した国家であった[8]

一方で、1970年代に入ると東西ドイツ間で相互を実質的に国家承認、国交が樹立し、大規模な経済援助なども行われた。
経済の悪化詳細は「ドイツ民主共和国の経済」を参照

東ドイツ経済は、1960年代にはヴァルター・ウルブリヒト政権がある程度の自由主義経済(「新経済システム」(Neues Okonomisches System 、略称NOS))を取り入れることによって発展し、東側陣営では随一の繁栄を誇った。しかし、ソ連の圧力による1971年のウルブリヒト失脚、そして1973年の第一次石油危機のあと、経済当局の組織硬直により、産業構造の転換に失敗し、東ドイツ経済は不況に陥る。エーリッヒ・ホーネッカードイツ社会主義統一党(SED)書記長、国家評議会議長)率いる東ドイツ指導部は危機打開のために、東西ドイツ基本条約(1972年)で事実上の「国交」を結んだ西ドイツから経済援助を受け、これを助成金として国内各所にばらまくことで経済を成り立たせていた。

この事実はホーネッカー退陣直後に暴露されたが、すでに東ドイツ経済は経済援助に頼りきりになっており、収支バランスを均衡にするためには東ドイツ市民の生活水準を30%前後切り下げることが必要であった[9]。この時点ですでに人口流出が止まらなくなっており、この暴露からほどなくして東ドイツは消滅した。
分断国家の思想統制

ホーネッカーは1980年代に入ってからのハンガリー人民共和国ポーランド人民共和国での社会変革への動きとは対照的に、秘密警察である国家保安省(シュタージ)を動員して国民の束縛と統制を強めていた。

他の東欧の社会主義国と違って、分断国家である東ドイツでは「社会主義のイデオロギー」だけが国家の拠って立つアイデンティティであり、政治の民主化や市場経済の導入といった改革によって西ドイツとの差異を無くすことは、国家の存在理由の消滅、ひいては国家の崩壊を意味するため、東ドイツ政権は1980年後半に東欧に押し寄せた改革の波に抗い続けていたのである[10]。東ドイツは他の東欧諸国にない厳格なイデオロギー国家であり、ナショナル・アイデンティティが欠如しており、それだけマルクス・レーニン主義が他の東欧諸国よりも重要な意味を持っていた国家であった[11]。それを一番強く意識していたのが他でもないホーネッカーら党指導部であり、あくまでも教条主義的なマルクス・レーニン主義に固執する以外に国家が生存する道は無いと考えていた。

西ドイツと明確に異なる東ドイツの存在意義は、対内的にも対外的にも「壁」の存在なしには成り立たないものであり、そのために徹底した思想・言論統制を行っていたのである[12]。国内にはポーランドのような「連帯」運動も、ハンガリーのような慎重にソ連と協調しながら勢力を増した「党内改革派」もなく、体制に不満を持つ人は壁の建設以前に西側に移り、壁建設以後は政治犯として収監されて西側へ追放されてしまい[13]、体制に不満な部分はわずかにキリスト教会の活動に押し込められていた。
旅行の自由を求めて

1989年以前の東欧諸国では、国家が国民に西側に旅行できない制限を課して、移動の自由が無い状態が続いていた。東ドイツの一般市民にとっては同じ東欧諸国への旅行でさえも制限があった。1989年の民主化要求のデモにおいて「旅行の自由」が求められていたのも、こういった事情があった[14]

東ドイツ市民が比較的自由に行けたのはチェコスロバキアで、身分証明書の提示だけで旅行が可能であった。民主化が進んでいたポーランドへは1981年以降は公認旅行社が主催する旅行か招待状によるものでしか許可されなくなった。他のブルガリア、ハンガリー、ルーマニアへはビザ不要であったが、旅券の他に東ドイツ政府が出す「ビザ免除旅行証」という許可証を入手しなければならなかった。私的旅行には3種類の区別があり、第1番目はソ連、ポーランド、チェコスロバキア、ブルガリア、ハンガリー、ルーマニア、モンゴル、北朝鮮の8ヵ国への旅行。第2番目は、年金資格を得る年齢に達した人々の旅行。第3番目は、その他の年金資格を得る年齢に満たない人々の旅行であり、近親者の冠婚葬祭や病気見舞いなどの際に当局に許可の申請を行うものであった[15]

この旅行の自由、移動の自由を求める動きは、壁の建設後は体制の抑圧で窒息状態であったが、1980年代後半になってから顕在化し、東ドイツ政府の頑なまでの対応がやがて自国民の大量出国を招き、その対応で新しい方針を打ち出す際にミスを犯し、その結果は壁の崩壊を招き、東ドイツの消滅につながった。
ゴルバチョフの改革東ドイツへのペレストロイカ導入を巡って対立した(右から)エーリッヒ・ホーネッカーミハイル・ゴルバチョフ1986年ベルリンの壁の前で演説するロナルド・レーガン(1987年)


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:226 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef