ベルナデッタ・スビルー
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^ ローランタン(2004)、pp.16-17. ピレネー地方の男女別のない長子相続制度である特異な「直系家族」(ル・プレー)の詳細については、cf. Rolande Bonnain(1986), p.132.
^ 10歳を迎えた信者が初めて聖体秘跡を受ける習慣。
^ ローランタン(2004)、pp.15-31.「ギゾー法」(1830)と「ファルー法」(1850)によって、初等教育は公民の基本的権限として理解されるようになったが、1882年3月28法の成立まで、フランスではまだ義務教育諸法は整備されていなかった。cf. 高津芳則(1988)
^ 邦訳書に散見される「ガブ川」「ガーヴ川」などの表記は誤訳。ガーヴ(フランス語版)とは、ピレネー山脈を水源とする「急流」や「激流」について18世紀末に付けられた呼称であり、固有名詞ではない。“Gave de Pau” とは、「ポーの激流、急流」の意である。百科全書ではすでに、「(男性名詞)地理用語。ベアルン地方〔ピレネー地方の大革命以前の歴史的呼称〕のいくつかの川に共通の呼称。これらの川はすべてピレネー山脈やアラゴン地方に水源を有しており、アスプ、オサン、オレロン、ポーのようなものがある。急流であるがゆえに舟を出すことはできないが、魚は極めて量富である」という定義が見られる。cf. ⇒“Gave” in Encyclopedie de Diderot et d'Alembert
^ 1858年当時と今日ではルルドの地形は異なる。ベルナデットたちが渡った支流は埋め立てれ、かつて牧草地であった中州と一体化し、そこに無原罪の御宿り、ロザリオ、聖ピオ10世の名前を冠した大聖堂が散在している。この牧草地では、ビゴール豚が放牧されていた。パトリック・マーンハム(p.8)の「1858当時のルルド」は概略図で正確ではない。マトン師の『ルルドの姫君』(p.8)のルルドの地図は、この著書が依拠しているベルトランの『ルルドの出来事の批評史』にあるものを手書きで写したもので、これも小さな水路名が省略されている。ベルトランの原著(1913, pp.22-23)にある地図は当時の地名を復元しており、後に刊行された研究書の中では、ローランタンの合冊本(2008, pp.424-425)がもっとも精確な当時の地図を提供している。
^ ベルナデットはいくつかの祈祷文(「主の祈り」「アヴェ・マリアの祈り」「天使祝詞」「栄唱」)を覚えていたが、十字を切る際に唱えるのは、「栄唱」の “Gloria Patri, et Filio, et Spiritui Sancto.”(栄光は父と子と聖霊に)の個所である。
^ cf. 新共同訳「五旬節の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされた」(2章1-4節)。
^ ミエ夫人(Jeanne-Marie Milhet, 1813-1892)は、ルルド屈指の富豪の未亡人だった。
^ 初聖体の後の1858年9月8日に、ベルナデット自身も入会を許された。cf. Andre Ravier(1993), p.50. 小林珍雄が「ルルド処女会」と意訳しているように、《幼きマリア会》(Enfant de Marie)は、ルルドの未婚女性の信心会で、正式名称は、 ⇒Association pieuse des Enfants de Marie de Lourdes(ルルド幼きマリア信心会)というものであり、今日も活動を続けている。1838 年12月8日ボーヌ愛徳孤児院のなかで誕生し、1840年2月2日に教会当局から公認され《幼きマリア会》は、その後フランス全土に普及し、「ルルド幼きマリア信心会」もその一つである。cf. “ ⇒La naissance officielle des enfants de Marie”. また、青色はマリアの「清純さ」を象徴する色であり、足元の薔薇は、聖母の伝統的なアトリビュートであった。
^ 原文は、“Boulet aoue la gracia de bie aci penden quinze dias.” であり、現在の標準フランス語では “Voulez-vous avoir la grace de venir ici pendant quinze jours ?” となる。教区司祭のベルナデットの呼びかけが「お前」(tu)となっていることからわかるように、通常は子供相手には用いられない丁重な表現である。cf. Rene Laurentin(2008), p.49.
^ この“Aquero”は、最初の音節にアクセント(Aquero)があると「その女性」という意で南部方言に広範に存在するが、後ろの音節のアクセント(Aquero)があると「あれ、それ」という意になり、こうした指示代名詞としての用法はルルド近辺以外では見られない。また、人影に関してベルナデットが《あれ》という抽象的な表現を用いたことに関して、ローランタンは、超越的な存在を神秘家たちが夜や無など言葉であらわして「絶対的他者」を俗化せず伝える、否定神学に通ずる便法と見なしている。cf. Rene Laurentin(1979), p.56.
^ cf. Marie- Dominique Peyramale(ペラマール神父とその親族)。ベルナデットは、官憲による迫害から身を挺して自分を庇護くれたペラマール神父に対する感謝の念を終生持ち続け、神父に訃報に接し、「敬愛する神父様の突然の訃報に衝撃を受けております。ルルドの住民たちにとって、何という恐ろしい喪失でしょう!ペラマール神父様が主の栄光と彼らの救霊のためになされたご尽力にお報いしなければ、恩知らずになることでしょう」(1877年7月15日付)と助任司祭のポミアン神父に書き送っている。ペラマール神父が亡くなったのは、9月8日の聖母マリア誕生の祝日であった。修道院の二階で祈っていたベルナデットは、この訃報に泣き伏したという。cf. Andre Ravier(1993), p.138.
^ ローランタン(2004)、p.133. ベルナデット自身がコートレの温泉に行っているように、ビレネー山麓は、コートレ、バニェール、バレージュという三大湯治場を擁し、18世紀末から19世紀にかけて一種の湯治ブームがあった。cf. 関一敏(1993)、p.63.
^ 「彼女はおまえに何と言ったのだ」というペラマール神父の問いに対して、ベルナデットは、「司祭たちのところに行って、ここに〔宗教上の〕行列をしてくるように伝えて下さい」(“D'aller dire aux pretres qu'on vienne ici en procession.”)と述べたことを伝えた。Rene Laurentin(1961-1965), t.5, p.166.
^ Pere Regis-Marie de la Teyssonniere,“Les enfants de Marie”(14 juin 2011)カトリック教会が公式するろうそく行列は、トゥールーズのカプチン会のマリー=アントワーヌ・ド・ラヴォール神父の発案により1872年8月28日に始まり、翌1873年5月27日には、洞窟までマリア賛歌を歌いながら移動する今日の行列のスタイルが確立した。cf. PP. Sempe et Duboe(1931), p.300.
^ 第二帝政の宗教省は、教皇至上主義(ウルトラモンタニズム)の進展を嫌って、ローマで行われた日本二十六聖人の列聖式にフランスの司教団が参加することを妨害しようとしたが、ベルナデットをヌヴェール愛徳修道会に斡旋したフォルカード司教は、1862年6月8日、ナポレオン3世を説得して出席した。Edmond Marbot(1889), pp.352-353.
^ cf. 小倉孝誠(1997)、pp.189-221. 記事名は「ルルドの奇跡の洞窟」(“ ⇒La Grotte miraculeuse de Lourdes” par Ferre in L'Illustraion, no 817, 23 octobre 1858)。
^ ローランタン(2004)、p.152. ピレネー地方の方言は、h の気音を発音し、動詞変化によって主語が理解されるなど近代の標準フランス語では失われた、ラテン語的な発音や古い統辞法を残していた。
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