ベルナデッタ・スビルー
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^ ミエ夫人(Jeanne-Marie Milhet, 1813-1892)は、ルルド屈指の富豪の未亡人だった。
^ 初聖体の後の1858年9月8日に、ベルナデット自身も入会を許された。cf. Andre Ravier(1993), p.50. 小林珍雄が「ルルド処女会」と意訳しているように、《幼きマリア会》(Enfant de Marie)は、ルルドの未婚女性の信心会で、正式名称は、 ⇒Association pieuse des Enfants de Marie de Lourdes(ルルド幼きマリア信心会)というものであり、今日も活動を続けている。1838 年12月8日ボーヌ愛徳孤児院のなかで誕生し、1840年2月2日に教会当局から公認され《幼きマリア会》は、その後フランス全土に普及し、「ルルド幼きマリア信心会」もその一つである。cf. “ ⇒La naissance officielle des enfants de Marie”. また、青色はマリアの「清純さ」を象徴する色であり、足元の薔薇は、聖母の伝統的なアトリビュートであった。
^ 原文は、“Boulet aoue la gracia de bie aci penden quinze dias.” であり、現在の標準フランス語では “Voulez-vous avoir la grace de venir ici pendant quinze jours ?” となる。教区司祭のベルナデットの呼びかけが「お前」(tu)となっていることからわかるように、通常は子供相手には用いられない丁重な表現である。cf. Rene Laurentin(2008), p.49.
^ この“Aquero”は、最初の音節にアクセント(Aquero)があると「その女性」という意で南部方言に広範に存在するが、後ろの音節のアクセント(Aquero)があると「あれ、それ」という意になり、こうした指示代名詞としての用法はルルド近辺以外では見られない。また、人影に関してベルナデットが《あれ》という抽象的な表現を用いたことに関して、ローランタンは、超越的な存在を神秘家たちが夜や無など言葉であらわして「絶対的他者」を俗化せず伝える、否定神学に通ずる便法と見なしている。cf. Rene Laurentin(1979), p.56.
^ cf. Marie- Dominique Peyramale(ペラマール神父とその親族)。ベルナデットは、官憲による迫害から身を挺して自分を庇護くれたペラマール神父に対する感謝の念を終生持ち続け、神父に訃報に接し、「敬愛する神父様の突然の訃報に衝撃を受けております。ルルドの住民たちにとって、何という恐ろしい喪失でしょう!ペラマール神父様が主の栄光と彼らの救霊のためになされたご尽力にお報いしなければ、恩知らずになることでしょう」(1877年7月15日付)と助任司祭のポミアン神父に書き送っている。ペラマール神父が亡くなったのは、9月8日の聖母マリア誕生の祝日であった。修道院の二階で祈っていたベルナデットは、この訃報に泣き伏したという。cf. Andre Ravier(1993), p.138.
^ ローランタン(2004)、p.133. ベルナデット自身がコートレの温泉に行っているように、ビレネー山麓は、コートレ、バニェール、バレージュという三大湯治場を擁し、18世紀末から19世紀にかけて一種の湯治ブームがあった。cf. 関一敏(1993)、p.63.
^ 「彼女はおまえに何と言ったのだ」というペラマール神父の問いに対して、ベルナデットは、「司祭たちのところに行って、ここに〔宗教上の〕行列をしてくるように伝えて下さい」(“D'aller dire aux pretres qu'on vienne ici en procession.”)と述べたことを伝えた。Rene Laurentin(1961-1965), t.5, p.166.
^ Pere Regis-Marie de la Teyssonniere,“Les enfants de Marie”(14 juin 2011)カトリック教会が公式するろうそく行列は、トゥールーズのカプチン会のマリー=アントワーヌ・ド・ラヴォール神父の発案により1872年8月28日に始まり、翌1873年5月27日には、洞窟までマリア賛歌を歌いながら移動する今日の行列のスタイルが確立した。cf. PP. Sempe et Duboe(1931), p.300.
^ 第二帝政の宗教省は、教皇至上主義(ウルトラモンタニズム)の進展を嫌って、ローマで行われた日本二十六聖人の列聖式にフランスの司教団が参加することを妨害しようとしたが、ベルナデットをヌヴェール愛徳修道会に斡旋したフォルカード司教は、1862年6月8日、ナポレオン3世を説得して出席した。Edmond Marbot(1889), pp.352-353.
^ cf. 小倉孝誠(1997)、pp.189-221. 記事名は「ルルドの奇跡の洞窟」(“ ⇒La Grotte miraculeuse de Lourdes” par Ferre in L'Illustraion, no 817, 23 octobre 1858)。
^ ローランタン(2004)、p.152. ピレネー地方の方言は、h の気音を発音し、動詞変化によって主語が理解されるなど近代の標準フランス語では失われた、ラテン語的な発音や古い統辞法を残していた。cf. 工藤進(1988)、pp.76-85.
^ 露出部には蝋製のマスクが被せられている。cf. Thomas J. Craughwell, Saints Preserved. Random House, 2011, p. 34.
^ 『ベルナデットの歌』の序文で、ヴェルフェルは、「もしも、私がこの絶望的な状況から脱却することができ、アメリカの岸辺に行き着いて救われることができたら、私はほかのどんな作にとりかかるよりも先にベルナデットの歌を歌いたい、私の全力を尽くして歌いたい」(片山敏彦訳『ベルナデットの歌』上巻、ix)と述べている。ヴェルフェルは、プラハ生まれのユダヤ人だが、幼少期には、バルバラ・ジムンコヴァというカトリック信者の家庭教師に連れられて、しばしば教会のミサに通った。また、ライプツィヒ大学進学以前は、カトリック系の修道院付属学校に学び、先輩にはライナー・マリア・リルケがいた。cf. 高本研一「フランツ・ヴェルフェル」、『世界文学大事典』集英社、1996年、第1巻、p.387.
^ ジェニファー・ジョーンズ自身も親子代々のカトリック信者。
^ このベルナデットの発言は、普仏戦争でフランスの敗北が明らかな時期(1870年12月9日)に、王党派で『ユダヤ人、ユダヤ教およびキリスト教民衆のユダヤ化』の著者として知られる反動的な作家、グジュノー・デ・ムソー(フランス語版)によってなされた面談の際のもので、対独復讐心とナショナリズムにベルナデットを政治利用しようという試みは、ベルナデットの信仰心によって一蹴された。Cf. Rene Laurentin(1972), p.131.
^ ベルナデットは、ボリーの水車小屋で生まれた。
^ ヌヴェール愛徳修道会によるルルドの慈善病院は、初等教育を施す女子校を運営しており、その内2クラスが無料で貧しい家庭の女子に向けて開かれていた。当初ベルナデットの母親は、小学校教諭のファニー・ニコロを公教要理の教師と考えていたがこれは無料ではなく、1858年10月14歳なってから、ベルナデットは先の無料クラスで授業を受けることになった。cf. Annne Bernet(1994), p.58. しかし、それまで正規の教育を受けたことがないベルナデットの学習は著しく遅れており、1858年12月から1859年1月の間の時期にこのアントワネット・タルディヴァイユから書字を習うことになった。バルトレスの教会には、ベルナデットの習字練習の原稿(1858年12月20日付)が残されている。練習したフランス語の単語は「マリア」(marie)であるが、通常大文字で書かれる語頭の M が小文字で書かれている。この習字の必要は、絶え間ない面会でサインを求められる機会が生じてきたからで、意味もわからない祝辞などを何回も書かされたので、どこでも書ける“p. p. Bernadette.”というサインを案出した。
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