ベルトルト・ブレヒト
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当時ブレヒトの興味を引いたのはヨハン・アウグスト・ストリンドベリゲオルグ・カイザーの戯曲、アルフレート・デーブリーンなどの新しい小説であり、トーマス・マンフランツ・ヴェルフェルに対してはブルジョワ文学とみなして終生敵対的な立場をとった。またこの頃ミュンヘンの寄席芸人カール・ヴァレンティンに魅せられ、彼のために数編の茶番劇を執筆した。1921年、小説『バルガンの成行きまかせ』が『メルクール』誌に掲載された。

1920年春、続いて1921年秋にベルリンを訪れ、表現主義作家や俳優と親交を結んだ。特に劇作家アーノルト・ブロンネン (Arnolt Bronnen) と親密になり、それまでベルト・ブレヒトの筆名を使っていたブレヒトは彼の名にちなんでベルトルト・ブレヒトに改め、綴りも本名の「Bertold」ではなく「Bertolt」とした。またベルリンでは『バール』の出版契約を結び、ドイツ座にてマックス・ラインハルト演出のストリンドベリ劇(『夢の戯曲』)の稽古に立ち会った。

1922年夏、『夜うつ太鼓』がミュンヘンの室内劇場で初演された。演出はオットー・ファルケンベルク (Otto Falckenberg) が担当したが、ブレヒト自身も稽古に立会い指示を出した。この上演は劇評家ヘルベルト・イェーリングによって紙上で激賞され、この年のクライスト賞を受賞し一躍脚光を浴びた。ブレヒトはこのミュンヘンの劇場の文芸部員となり、また同年末、最初の妻マリアンネ・ツォフと結婚、翌年に娘ハンネ(後の女優ハンネ・ヒオプ)が生まれたが、ツォフとは1927年に離婚している。

1923年に『バール』、続いて『都会のジャングル』を王宮劇場で上演。同じ頃、2番目の妻であり生涯の伴侶となるヘレーネ・ヴァイゲルと出会った。1924年クリストファ・マーロウの戯曲『エドワード二世』を翻案した『イングランドのエドワード二世の生涯』を演出、ミュンヘンの室内劇場にて上演した。この作品でブレヒトは控えめな衣装・小道具を用い、兵士役の俳優に白塗りをした。こうした演出の簡素さは、後に彼が主宰するベルリーナー・アンサンブルの特徴となる。
ベルリン時代『三文オペラ』表紙

1923年9月、カール・ツックマイヤーとともに、マックス・ラインハルトの率いるドイツ座の文芸部員に採用され、ミュンヘンからベルリンに移住した。10月に国立劇場で『イングランドのエドワード二世の生涯』が、ドイツ座で『都会のジャングル』が上演され、ブレヒトは知名度を上げていった。11月、ヘレーネとの間に長男シュテファン(後に演出家)誕生。

1926年頃からマルクス主義の学習を始め、『資本論』を熟読した。また1926年に詩集『家庭用説教集』を出版し、詩人としても評価を得た。この詩集には自らの作曲を付けて小型の賛美歌本のような体裁にしたため「悪魔の祈祷書」とも呼ばれた。

1927年より作曲家クルト・ヴァイルとの共同作業を開始。ベルリンでは公私両面の重要なパートナーとなる数多くの人物と出会っており、ヴァイルの他にエリーザベト・ハウプトマン (Elisabeth Hauptmann, 1924年から1933年までのブレヒトの秘書であり愛人)、マルガレーテ・シュテフィン(Margarete Steffin, 1932年以降の秘書であり愛人)、ルート・ベルラウ(Ruth Berlau, デンマーク王立劇場の女優で、1944年にブレヒトとの間に男児を儲けた)などと知り合っている。またこの頃、マルクス主義への興味からアジプロ演劇(アジテーションプロパガンダの演劇)の先駆者エルヴィン・ピスカトールと知り合い、彼の演劇手法に影響を受けた。

1928年、ジョン・ゲイ乞食オペラ』を秘書ハウプトマンの翻訳で読み、すぐに翻案『三文オペラ』の執筆を始めた。ヴァイルによる曲が付けられたこの作品は同年8月に初演が行なわれると非常な成功を収めた。ドイツでは1年以上のロングランとなったほか世界各地でも上演され、以後ブレヒトの代表作と見なされるようになった。

1930年頃よりブレヒトは新しい演劇の形を模索し「教育劇」(Lehrstuck) と題する一連の作品を発表し始める。1930年の『処置』では作曲家ハンス・アイスラーと共同作業を行い、彼との協力関係はその後ブレヒトの死まで続いた。またこの頃女優アンナ・ラチスを通じてヴァルター・ベンヤミンと知り合い親交を結んだ。ベンヤミンはブレヒトの理解者となり彼の作家論を幾つか執筆している。この友情はスペイン亡命中のベンヤミンの自殺まで続いた。

1932年には、全面的に協力した映画『クウレ・ワムペ』を製作。プロレタリア・スポーツ運動による労働者階級の連帯と団結を謳いあげた映画であったために、本国ドイツでの検閲で上映は禁止される。激しい抗議運動の結果、11箇所のカットと未成年の観覧禁止という条件で、1932年5月に公開された[1]。また演劇ではマクシム・ゴーリキーの『母』を改作した作品を上演。『母』は初日の約1か月後に上演中止となり亡命前に演出した最後の作品となった。

1933年、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領がアドルフ・ヒトラーを首相に任命。国会議事堂放火事件の翌日(1933年2月28日)、ブレヒトは手術のために入院中だった病院を抜け出し、ユダヤ人であった妻のヴァイゲルと長男シュテファンを連れてプラハ行きの汽車に乗り込んだ。
亡命生活ブレヒト(右)とハンス・アイスラー

ブレヒトはプラハ・ウィーンチューリッヒを経由してデンマークに向かった。その途上で、ヴァイルやシュテフィン、ベルラウらと合流し、こうした仕事仲間とともに5年間ほどデンマークのスヴェンボルに滞在した。

1933年5月にナチ党政府はブレヒトの著作の刊行を禁止し、焚書の対象とした。ブレヒト自身も1935年にナチスによりドイツ市民権を剥奪された。その後、1935年から38年にかけてブレヒトは、連作劇『第三帝国の恐怖と悲惨』を書いている。この作品において、ナチ党政権下で恐怖に怯えて生活する小市民の様子が、寄席風コントの手法で描かれた。数年後、アメリカに亡命中のマックス・ラインハルトは『第三帝国の恐怖と悲惨』の上演を計画するが実現には至らなかった。

ナチスによるオーストリア併合チェコスロバキア進撃と続いて、デンマークにも危険を感じたブレヒトは1939年4月にストックホルムに移り、女性彫刻家サッティンソンの好意でストックホルム沖の小島リンディゲーのアトリエを借りた。ブレヒトはこの地で女優ナイナ=ウィフトランドの語る女性酒保商人の話を聞いて触発され、『肝っ玉お母とその子供たち』を2か月ほどで書き上げた。1940年4月、ナチスがデンマーク、ノルウェーに侵攻したためヘルシンキに逃れ、作家ヘッラ・ヴォリヨキの元で過ごすようになった。1941年には家族や仲間と連れだってモスクワウラジオストクを経由してアメリカ合衆国へ渡り、カリフォルニア州サンタモニカに移住。当初計画したハリウッドへの脚本の売り込みはうまくいかず、戯曲上演の計画も難航し経済的に困窮することになったが、ブレヒトはロンドンパリ、さらにニューヨークを旅行しながら数々の作品を上演し、各地の亡命作家に宛てて作品を寄稿している。またブレヒトは、30年代初期に書いた戯曲『ガリレイの生涯』の原稿を、亡命時代に三度も書き直している。この時期には亡命者の多くいたチューリヒで『ガリレイの生涯』『肝っ玉お母とその子供たち』『セツアンの善人』などが上演されていた。

合衆国でブレヒトは、ドイツからの亡命者の映画監督フリッツ・ラングと共に、映画『死刑執行人もまた死す』の脚本を執筆。音楽はアイスラーが担当した。この映画は1943年に公開された。また1943年には、ドイツ亡命者の委員会設立をめぐりトーマス・マンと対立した。
戦後ブレヒト夫妻の墓

共産主義者であったブレヒトにとって、当時の米国は決して快適な国ではなかった。1947年10月30日、ブレヒトは下院非米活動委員会の審問を受けた。ニューヨークチャールズ・ロートン主演による『ガリレオ・ガリレイの生涯』の初公演中であったにもかかわらず、審問の翌日、ブレヒトはパリ経由でチューリッヒに逃亡。西ドイツへ入国が許されなかったためブレヒトはチューリッヒに1年間滞在し、オーストリア国籍を取得した。

1948年10月にプラハを経由して、チェコスロバキア国境を越えて東ドイツに到着。東ベルリンに居を構えたブレヒトは、1949年にベルリーナー・アンサンブルを結成。同年11月にブレヒト演出による第1回公演『プンティラ旦那と下男マッティ』が初演された。1949年にはヴァイゲル主演の『肝っ玉おっ母とその子供たち』がチューリッヒで初演されている。1950年代にはブレヒトは古典の改作に着手し、ヤーコプ・ミヒャエル・ラインホルト・レンツ『家庭教師』、ウィリアム・シェイクスピア『コリオレイナス』、ゲアハルト・ハウプトマン『ビーバーの毛皮』、モリエール『ドン・フアン』などを改作している。


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