ベルギー
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クロヴィス1世はその後、ローマ帝国ガリア地方の軍司令官シアグリウス、ライン地方のテューリンゲン族(ドイツ語版、英語版)、ルクセンブルク南部のアレマン族ブルグント王国西ゴート王国といった勢力を次々と打ち倒し、北海からピレネー山脈に至る広大な領地を獲得した[9]。しかし、クロヴィス1世没後は王国領土が4人の遺子に分割相続され、内部対立による衰退が進んだ[10]

7世紀中盤ごろになるとアウストラシア宮宰としてピピン2世が頭角を現し始めた。687年テルトリーの戦いネウストリアに勝利すると、フランク王国における支配権を確立した。732年カール・マルテルの時代にトゥール・ポワティエ間の戦いにおいてウマイヤ朝に勝利、751年にはピピン3世がクーデターを断行し、メロヴィング朝に代わり、カロリング朝が興った。754年ランゴバルド王国を討伐して獲得したラヴェンナを教皇に寄進することにより宗教的後ろ盾を得ることとなり、フランク王国は宗教的国家という特色を持つようになった[11]カール大帝の時代になるとフランク王国は今日のフランス・ドイツ・イタリアに相当する地域を統一し、東ローマ帝国を凌ぐ大国となった[11]800年サン・ピエトロ大聖堂においてレオ3世より西ローマ帝国の帝冠を授与された(カールの戴冠)。民族大移動以来、混成していた西ヨーロッパが東ローマから独立した存在としてまとまり、ギリシャ・ローマ的要素、キリスト教的要素、ゲルマン的要素が融合して新しい文化圏を形成した中世ヨーロッパ世界が確立した[12]

カール大帝が没し、ルートヴィヒ1世の治世が終わった843年ヴェルダン条約によって王国は東フランク王国西フランク王国ロタリンギアに分けられた。さらに870年メルセン条約によってロタリンギアは東西フランクに分割吸収され、この結果、ベルギー地方はスヘルデ川を境として分裂することとなった[13]。また、9世紀初頭より始まったノルマン人襲来の脅威から身を守るため、各地で地主や司教たちを中心としてフランドル伯領ブラバント伯領リエージュ伯領エノー伯領ナミュール伯領リンブルク伯領ルクセンブルク伯領といった封建国家が誕生した[13]。中でもフランドル伯領は、リンネルの交易によって「ヨーロッパの工場」としての地位を築き上げ、ブルッヘヘントといった都市を中心に繁栄を誇った[14]

10世紀に入ると城や砦に隣接して誕生した居住地(ブルグス)の住民は共同体を形成するようになり、キヴェスやブルゲンセスといった呼称で統一的に呼ばれるようになった[15]。特にブルゲンセスは何らかの特権を賦与された住民層を示す語となり、外来者や下層民らと自身を区別する意識を持つようになった。彼らは土地の所有など一定の条件を満たす者同士で宣誓共同体(コミューン)を結成して法人格を持つグループを構成した[16]。コミューンを通して領主との双務的契約の締結がなされるようになり、コミューンは金銭の支払いや領主への奉仕を交換条件として税の免除や一定の自治権の取得といった特権を獲得していった[17]。こうして都市は領主と一部の特権階級者によって支配されるようになり、一般市民との対立を招く結果となった[18]
14世紀以降

1337年、フランドル伯領の諸都市はイングランドエドワード3世の支援を受けて反乱を起こした。一時的に諸都市はイングランドとの通商や種々の特権を獲得することに成功するが、1381年にはフランドル伯の反撃を受け、ブルッヘが征服されてしまう。この結果、フランドル地域はフランドル伯死後にブルゴーニュ公国に組み入れられることとなった[19]

フィリップ豪胆公から始まるブルゴーニュ公国は、「飛び地」として獲得した豊かな産業を持つフランドル地方の経済力を背景として版図の拡大を図った[20]。飛び地の解消を目指してフランス王国へと積極的な介入を見せたが、シャルル突進公1477年ナンシーの戦いにおいて敗北を喫すると逆にフランスからの侵略を受けることとなった。シャルル突進公の戦死を受けて、娘マリーはかねてより婚約していたハプスブルク家マクシミリアン大公(のちの神聖ローマ皇帝)に救援を要請し、結婚した[21]。ここにブルゴーニュ公国は終焉を迎え、フランドル地方はハプスブルク家の支配下に組み込まれることとなった。

フランドル地方の統治権はフィリップ美公を経て1506年、カール5世に渡った。カールは1464年に設置されていたネーデルラント全域を管轄する全国議会を存続させ、1531年にネーデルラントに軍事・立法・財務の各職掌に評議院を設ける[22]など統治に意を用いる一方、この地方の統合を進め、1543年にはゲルデルン公国を併合してこの地方を統一し、1548年には神聖ローマ帝国からこの地方を法的に分離してネーデルラント17州を誕生させた[23]。この時期アントウェルペンはブリュージュに代わりフランドルの経済の中心となった。しかしカールが1556年に退位し、ネーデルラントをスペイン王となったフェリペ2世が統治するようになると、強硬な異端取り締まりや自治の制限といった圧政に17州が蜂起し、1568年に八十年戦争が勃発した。この戦争は当初はスペイン側が優勢に戦いを進め、1576年には大貿易港だったアントウェルペンをスペインが占領・劫掠する一方、17州側はヘントの和約を締結して結束を固めた[24]。しかしこの和約は北部のカルヴァン派と南部のカトリックとの対立によって崩壊し、北部諸州はユトレヒト同盟を結んで独立の姿勢を鮮明にする一方、南部2州はアラス同盟を結んでスペイン寄りの姿勢を示し[25]、ここを拠点に進撃したスペイン軍が南部10州の支配を固め、ネーデルラントは南北に分離することとなった。最終的に、北部7州は1648年のヴェストファーレン条約によってネーデルラント連邦共和国として正式に独立を承認されたが、南部諸州はスペイン領南ネーデルラントとしてスペインの支配下に留まった[26]
18世紀

スペイン・ハプスブルク朝の断絶により生じたスペイン継承戦争1701年 - 1714年)の結果、ラシュタット条約でスペイン領南ネーデルランドがオーストリアに割譲され、オーストリア領ネーデルラントが成立する。1740年オーストリア継承戦争ではフランスが再度ベルギーを占領したが、アーヘンの和約によりマリア・テレジアに返された。


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