ベルギー
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ベルギーは19世紀ネーデルラント連合王国から独立した国家で、オランダ語の一種であるフラマン語が公用語の北部フランデレン地域と、フランス語が公用語の南部ワロン地域とにほぼ二分される(このほかにドイツ語が公用語のドイツ語共同体地域もある)。

建国以来、単一国家であったが、オランダ語系住民とフランス語系住民の対立(言語戦争)が続いたため、1993年にフランデレン地域ワロン地域とブリュッセル首都圏の区分を主とする連邦制へ移行した。
国名

正式名称は、

オランダ語:  Koninkrijk Belgie[ヘルプ/ファイル](オランダ語発音: [?b?lxi?][1] コーニンクレイク・ベルヒエ[注釈 4]

フランス語: Royaume de Belgique(フランス語発音: [rwajom d? b?l?ik] ロワイヨーム・ドゥ・ベルジク)

ドイツ語 : Konigreich Belgien(ドイツ語発音: [?ko?n?cra?c ?b?l?i?n] ケーニヒライヒ・ベルギエン)

英語表記は、Kingdom of Belgium(英語発音: [k?´?d?m ?´v be´ld??m][2] キングダム・オブ・ベルジャム)で形容詞はBelgian(ベルジャン)。ラテン語表記もBelgium(ベルギウム[3])である。

日本語の表記はベルギー王国。通称はベルギー。漢字による当て字で白耳義と表記され、白と略される。オランダ語の「Belgie(ベルヒエ)」に由来し、江戸時代にオランダ商人が来航した際に伝わったのをそのまま文字読みしたものである。

ベルギーという名称は、かつてのガリア北東部の呼称「ベルガエ」、もしくは同地に住んでいたベルガエ人に由来するとされる。
歴史詳細は「ベルギーの歴史」を参照
古代

ベルギーと称される地域には、旧石器時代ごろより農耕と漁労を主とする人類の定着が見られる[4]新石器時代に入り、大西洋の海進によって温暖化が進むと中央ヨーロッパから移住してきた種族が定住を始め、牧畜技術の移入と農耕技術の革新をもたらした[5]。こうした民族と文化の移入は紀元前1000年ごろまで続き、社会的組織の構築や金・銅・錫の生産、ドルメンといった文化移入の痕跡が見られる[5]。また、エジプト産のビーズなども発見されていることから、この時代、地中海世界の広い範囲で行われた交易に参加していたとも考えられている[5]。紀元前6世紀ごろにケルト人ライン川を渡って到来し、移住してくると、彼らによって火葬の文化や鉄器がもたらされた[5]

紀元前後になるとローマ人との接触が始まり、ガイウス・ユリウス・カエサルが紀元前57年に著した『ガリア戦記第二巻』に、この地に居住する民族について初めて言及がなされた[5][6]。カエサルは同地に居住するゲルマン人との共通性を持つケルト人の多くを総称してベルガエ族と呼んだ[5]。ベルガエ族は多数の部族に分かれてベルギー地方で生活していたが、ガリア戦争を経て同地は紀元前51年にガリア・ベルギカとしてローマ帝国の属州となった[6]。ローマはその版図をライン川まで広げてゲルマニアの征服へと乗り出し、その過程で遠征拠点の都市としてトンゲレントゥルネーアルロンといった植民都市が築かれた[6]

アウグストゥスの時代にベルギーを含むライン川左岸からフランス東北部にわたる地域がベルギカ州に組み込まれたが、ドミティアヌスは東部国境線を東進させてライン川沿いの地域をベルギカ州から分離させて上下ゲルマニアとし、今日のベルギーを構成する大部分の地域はこのとき下ゲルマニアに組み込まれた[7]

3世紀に入り、海進によって居住地を失った人々が大規模な移住を始めた。これによってフランク族がライン川を越えてローマ帝国へ侵入し、ライン川近郊の多数の都市が占拠されていくと、帝国の国境はブローニュケルンを結ぶ軍用道路線まで後退した[6]。こうして北部ではゲルマン人の定着に伴うフランデレン語が、南部ではワロン語が浸透していき、その結果生まれた境界線は以降のベルギーにおけるラテン系・ゲルマン系という民族紛争、言語戦争の起源となった[8][9]。フランク族の侵入によって徐々に弱体化していったローマ帝国のフラウィウス・クラウディウス・ユリアヌスは、358年サリ族トクサンドリア定着を認めた。
中世

481年、次第に勢力を強めるサリ族の王に即位したクローヴィス1世トゥルネーを首都とするメロヴィング朝を建国した[9]。クロヴィス1世はその後、ローマ帝国ガリア地方の軍司令官シアグリウス、ライン地方のテューリンゲン族(ドイツ語版、英語版)、ルクセンブルク南部のアレマン族ブルグント王国西ゴート王国といった勢力を次々と打ち倒し、北海からピレネー山脈に至る広大な領地を獲得した[9]。しかし、クロヴィス1世没後は王国領土が4人の遺子に分割相続され、内部対立による衰退が進んだ[10]

7世紀中盤ごろになるとアウストラシア宮宰としてピピン2世が頭角を現し始めた。687年テルトリーの戦いネウストリアに勝利すると、フランク王国における支配権を確立した。732年カール・マルテルの時代にトゥール・ポワティエ間の戦いにおいてウマイヤ朝に勝利、751年にはピピン3世がクーデターを断行し、メロヴィング朝に代わり、カロリング朝が興った。754年ランゴバルド王国を討伐して獲得したラヴェンナを教皇に寄進することにより宗教的後ろ盾を得ることとなり、フランク王国は宗教的国家という特色を持つようになった[11]カール大帝の時代になるとフランク王国は今日のフランス・ドイツ・イタリアに相当する地域を統一し、東ローマ帝国を凌ぐ大国となった[11]800年サン・ピエトロ大聖堂においてレオ3世より西ローマ帝国の帝冠を授与された(カールの戴冠)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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