ベリー・ゴーディー
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ベリー・ゴーディー・Jr.
Berry Gordy, Jr.
ベリー・ゴーディー(2010年12月)
基本情報
生誕 (1929-11-28) 1929年11月28日(94歳)
出身地ミシガン州デトロイト
ジャンルロックソウルポップ
職業レコード会社役員、ソングライター音楽プロデューサー映画プロデューサーテレビプロデューサー
活動期間1957?1999
レーベルモータウン
共同作業者ジャクソン5、ザ・コーポレーション(英語版)、スプリームススモーキー・ロビンソンテンプテーションズ、ミラクルズ、マイケル・ジャクソン

ベリー・ゴーディー・ジュニア(Berry Gordy, Jr.[1]1929年11月28日 - )は、モータウン・レコードやその関連レーベルの創業者として知られる、アメリカ合衆国音楽プロデューサー実業家

マイケル・ジャクソンスティーヴィー・ワンダーなど多くの大物アーティストを発掘した。
生い立ち

ベリー・ゴーディー・ジュニアは、ミシガン州デトロイトで、8人兄弟の7番目の子供として黒人中流家庭に生まれた(ゴーディー・ファミリー(英語版))。父は、息子との対比でベリー・ゴーディー・シニアと呼ばれることもあるベリー・ゴーディー2世(Berry Gordy II、1888年 - 1978年)、母はバーサ・フラー・ゴーディー(Bertha Fuller Gordy)で、一家は1922年ジョージア州ミレッジビル(英語版)からデトロイトへやってきた[1]。ゴーディーは、強い絆で結ばれた躾の厳しい家庭で育った。ゴーディーの父ベリー・ゴーディー2世は、ベリー・ゴーディー1世とルーシーという女性の間に生まれた。また、ゴーディーの父方の祖父であるベリー・ゴーディー1世は、ジェイムズ・トマス・ゴーディーという白人の農民と黒人女性奴隷の間にジョージア州で生まれていた。

父ベリー・ゴーディー2世がデトロイトに引き寄せられたのは、拡大を続けていた自動車産業が数多くの雇用機会を黒人にも提供していたためであった[1]

ベリー・ゴーディー・ジュニアの兄姉たちは皆、デトロイトで立派な黒人市民となっていた。しかし、ゴーディーは第11学年で高校を中退し、一攫千金を夢見てプロボクサーになった。やがて、1950年朝鮮戦争のためアメリカ陸軍に徴兵されるまで、ゴーディーはプロとしてボクシングを続けた。

韓国から1953年に帰国したゴーディーは、テルマ・コールマン(Thelma Coleman)と結婚した。ゴーディーは、音楽への関心を深め、曲を書いたり、もっぱらジャズのレコードを扱うThe 3-D Record Martというレコード店を始めたりした。しかし、店の経営はうまく行かず、ゴーディーはリンカーン・マーキュリーの工場で働けないかと職探しをはじめたが、家族のコネをたどってフレーム・ショー・バー(英語版)というタレント・クラブのオーナー、アル・グリーン(Al Green)(同名の歌手とは別人)と知り合い、このクラブで歌手ジャッキー・ウィルソンと出会った。

1957年、ウィルソンは「Reet Petite」を録音したが、この曲はゴーディーが、姉グエンと、ライター兼プロデューサーのビリー・デイヴィス(英語版)との共作であった。この曲は、そこそこのヒットとなったが、国外ではアメリカ国内以上にヒットし、特にイギリスではトップ10に入る大ヒットとなった(後に、1986年に再発された際には首位に立った)。その後2年間にウィルソンは、ゴーディーが共作者となった曲を4曲録音し、そのうち、「Lonely Teardrops」は R&Bチャートの首位に立ち、ポップ・チャートでも7位まで上昇した。また、ゴーディーと姉グエンは、チェス・レコードエタ・ジェイムスのために「All I Could Do Was Cry」を書いた。
モータウン・レコード

ゴーディーは、自作曲のヒットで得た資金を、制作に再投資した。1957年、ゴーディーはミラクルズ(英語版)(当初は、The Matadors)を見いだし、何組ものアーティストたちを成功させ始めた。1959年、ミラクルズのリーダーだったスモーキー・ロビンソンに背中を押されたゴーディーは、家族から800ドルを借り、R&Bレーベル「タムラ・レコード」(Tamla Records)を立ち上げた。1959年1月21日、マーヴ・ジョンソン(英語版)の「Come To Me」が、Tamla 101として発売された。ユナイテッド・アーティスツ・レコードは「Come To Me」に目をつけ、これを全国発売し、さらにこれに続いたジョンソンのヒット曲が生まれた(その中には、ゴーディーが共同プロデューサー、共作者に名を連ねていた「You Got What It Takes」などがあった)。続いてゴーディーは、Rayberレーベルを立ち上げ、ウェイド・ジョーンズ(Wade Jones)が無名の女声グループをバックに録音した、このレーベル唯一のシングル盤を出した。ウェイド・ジョーンズが歌った「I Can't Concentrate」と「Insane」の出来はとても良かったが、レコードはあまり売れず、今日ではモータウン関係のレコードとして最も希少なものになっている。ゴーディーが第3弾として発売したのは、ミラクルズの「Bad Girl」で、これがモータウン・レコードというレーベル名での最初のリリースであった。「Bad Girl」はチェス・レコードから発売されて1959年に大ヒットとなった。バレット・ストロングの「マネー」は最初はタムラから出たが、その後1960年2月に、ゴーディーの姉のレーベルアンナ・レコード(英語版)の盤がチャートを上昇した。ミラクルズのヒット曲「ショップ・アラウンド(英語版)」が1960年遅くに全米R&Bチャートの首位に立ち、1961年1月16日ビルボード誌のポップ・チャートでも2位まで上昇した(キャッシュボックス誌のチャートでは首位に立った)ことで、モータウンは注目に値する独立系レコード会社となった。1961年には、マーヴェレッツの「プリーズ・ミスター・ポストマン」R&Bとポップ両方のチャートで首位になった。

1960年、ゴーディーは無名だったメリー・ウェルズ(英語版)と契約したが、彼女はやがて、スモーキー・ロビンソン作の「en:You Beat Me to the Punch」、「en:Two Lovers (Mary Wells song)」、「en:My Guy」といった曲で、モータウン・レーベルが育て上げた最初のスターとなった。タムラとモータウンは合併し、1960年4月14日に新たな会社モータウン・レコード・コーポレーションが成立した。

ゴーディーは、Nick and the Jaguars、Mike and The Modifiers、Chris Clark、Rare Earth、the Valadiers、Debbie Dean、Connie Hainesなど、何組かの白人アーティストたちとも契約したが、白人スターを育てることには成功しなかった。1959年、ゴーディーはトム・クレイ(Tom Clay)という白人DJで歌手のレコードをプロデュースし、Chant というデトロイトの小レーベルからレコードを出した。この Chant がゴーディー所有のレーベルだったのかどうかは、今となっては分からないが、このシングル盤は、レコード・コレクターの間では、ゴーディー関係のシングル盤で最も希少なものとされている。後にトム・クレイはロサンゼルスでもDJとして成功し、1970年代には、ゴーディー所有の MoWest レーベルで、再びレコーディングをしている。モータウンが最初に契約したイギリスの白人女性歌手は、キキ・ディー(Kiki Dee)であった。また、ゴーディーは、「ヒッツヴィルUSA」と名付けたデトロイトのウェスト・グランド大通りの本社に、白人従業員を数置く雇用していた。ゴーディーは、おもにアフリカ系アメリカ人のアーティストたちを売り込んでいたが、彼らのパブリック・イメージ、服装、マナー、踊りの振り付けなどを、例外なく注意深く管理していた。

才能の発掘と育成におけるゴーディーの手腕は、注意深く管理されたアーティストたちのパブリック・イメージと相まって、モータウンに全米での成功をもたらし、やがてそれは国外にも広まっていった。その後、1960年代を通して、ゴーディーは、スプリームスマーヴィン・ゲイ、コントゥアーズ(The Contours)、ジミー・ラフィン(Jimmy Ruffin)、テンプテーションズフォー・トップスグラディス・ナイト&ザ・ピップス(Gladys Knight & the Pips)、コモドアーズ、ヴェルヴェレッツ(The Velvelettes)、マーサ&ザ・ヴァンデラススティーヴィー・ワンダージャクソン・ファイヴといったアーティストたちと契約を結んだ。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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