また1942年初頭に、ソ連NKVD通信センターは、使い捨て暗号表(ワンタイムパッド)を35,000ページ複製し2組の暗号表を作った。これにより同一暗号で暗号化された通信文が2つあることになった。そのため、アメリカ国家安全保障局(NSA)のメレディス・ガードナーほかの解読者は暗号を破ることができた。
解読は極秘であったが、秘密情報部(SIS) のアメリカ駐在連絡代表キム・フィルビーがソ連に情報を流したため、ソ連は解読が実施されていることを知っていた。しかし当時フィルビーはSIS長官候補であったため、彼を温存するためにこの情報を利用しなかったという。 暗号突破時に判明したこと。
暗号突破
アメリカの元共産党員であったE・ベントリー
解読で判明したこと
1930年代?1940年代のアメリカ政府機関、アメリカ国内の民間シンクタンク、民間平和団体、宗教関連団体、出版社などが事実上ソ連に乗っ取られていた事が判明。第二次大戦時のアメリカの政策決定の多くをソ連の意図に基づいて歪められていた間接侵略・シャープパワーの可能性が浮き彫りになる[9](『米国共産党調書』および敗戦革命も参照)。アメリカ政府機関内部にはウエアグループ、パーログループ、シルバーマスターグループ(ヘンリー・モーゲンソウ財務長官(当時)の周辺を固めていた財務官僚中心のグループで事実上モーゲンソウ財務長官の意思決定に大きく関わっていた)、OSS(CIAの前身)、司法関係を含む多くの主要官庁及び軍組織に多数のスパイとスパイグループ及びスパイネットワークが存在し、アメリカ政府の様々な機密情報(国家機密)がソ連に筒抜けになっていた。これら数百名単位のスパイ及びスパイグループは機密情報をソ連に流していただけではなく、アメリカ政府の政策決定に大きな影響を与える、いわゆる影響力工作を行ってアメリカの政策や戦争の推移がソ連に有利になるように、モスクワからアメリカを操っていた可能性がある事がわかった。民間ではIPR、いわゆる太平洋問題調査会が1930年代からソ連コミンテルン系のスパイと蒋介石配下の国民党系スパイ等によって乗っ取られ、パシフィック・アフェアーズ等の雑誌を通じたプロパガンダ・偏向報道(上海南駅の赤ん坊を参照)によってアメリカ政府関係者などに”好戦的な日本観”を植え付け、中国大陸における日本の行動を非難してアメリカ世論を対日戦へと誘導(扇動)し、ABCD包囲網や対中支援および対日経済制裁などの対日強硬策がとられた。YMCAや複数の平和運動団体もこれに同調して批判的対日世論を盛り上げたが、これらの動きの背後にはソ連コミンテルン及び中国共産党系のスパイの活動が大きく関わっていた事がわかった[7](第7回コミンテルン世界大会と人民戦線も参照)。当時のソ連の工作はアメリカ国外にも及び、対中国では中ソ不可侵条約の締結と在華ソビエト軍事顧問団やソ連空軍志願隊の派遣を行い、国民革命軍の対日作戦に影響を与えた(コミンテルン指令1937年も参照)。また、日本国内ではゾルゲ諜報団・尾崎秀実らの工作が行われ、日中戦争の講和を阻害するとともに南進政策(仏印進駐)へ誘導し、その結果日米両国が太平洋で衝突する太平洋戦争(1941年12月-1945年8月)へと繋がった[10]。