ベネヴェントの戦い
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マンフレーディは王国の堅固な要塞群がシャルル・ダンジューの軍をじょじょに疲弊させ、追いつめていくと考えていたが、案に相違して、シャルルの軍は迅速に進軍していた。マンフレーディの救援を期待できない要塞の守備隊は戦意を阻喪し、次々と降伏していたからである。シャルル・ダンジューはマンフレーディの軍がヴォルトゥールノ川下流域に集まりつつあることを知ると、マンフレーディ軍の補給路を断って孤立させるべく、カッシーノから突然内陸部へと方向を変え、ベネヴェントを攻撃する気配を見せた。マンフレーディもカプアから軍を返して内陸部へと移動した。マンフレーディはカローレ川付近でシャルル・ダンジューの軍を捕捉した。シャルルの軍は疲労と食糧不足の中にあり、カローレ川には橋が一本しかない上、マンフレーディは有利な位置を占めていた。もし持久戦になれば、マンフレーディのほうが有利であることは明らかであった。シチリア王国の領域(1154年

しかしながら、マンフレーディは更なる裏切りを恐れて、早期決戦を望んだ。守備隊の多くが簡単に守備を放棄した事実が、配下の貴族の忠誠心に動揺を与えていると感じていた。マンフレーディは平原へ下り、会戦に持ち込むことを選んだ。軍を3つに分け、前面にサラセン人の軽歩兵を、中段にジョルダーノ・ランチアとアングローナのガルヴァーノが指揮するドイツ人の重武装した騎兵を、後衛に伯父のサレルノ公ガルヴァーノ・ランチア率いるイタリア人傭兵部隊と護衛のサラセン人軽騎兵を配置した。マンフレーディ自身は1000を上回る予備部隊とともに陣地の近くに位置した。

シャルル・ダンジューも軍を3つに分けていた。前面にはを装備した歩兵部隊をおき、それに騎兵部隊が続いていた。最初のプロヴァンス人騎兵900人を指揮するのはミルポアのユーグとモンフォールのフィリップで、第二陣の騎兵1000人はシャルル自身が指揮した。シャルルの騎兵部隊を支援するために、グィード・グエッラが指揮するゲルフの騎兵部隊が同行していた。最後尾にはフランドルのロベール3世と城代ジル・ル・ブルムが指揮する北フランスとフランドルの部隊が控えていた。
戦いの経過

戦いは朝方に始まった。マンフレーディはまだ十分な準備が整っていなかったが、彼のサラセン人部隊は橋の向こうでシャルルのフランス人部隊と交戦を開始した。サラセン人部隊はシャルルのフランス人部隊を圧倒したが、そこにプロヴァンスの騎兵部隊が突入すると、たちまち蹴散らされた。これを見たマンフレーディのドイツ人騎兵部隊は命令を待たずに突撃し、シャルル・ダンジューは第二陣の騎兵部隊も戦線に投入した。数に劣るものの、強固な装甲によって武装したドイツ人騎兵は、シャルルの騎兵の剣を全く通さず、戦いの趨勢はわからなくなった。しかしやがてドイツ人騎兵が剣を振り下ろす際に脇の下が無防備になることが発見されると、シャルルの軍はそこを突いて攻撃し、ドイツ騎兵はたちまち劣勢に立たされた。このときすでにマンフレーディの敗北が見え始めていた。

ドイツ人騎兵の強さを過信していたマンフレーディ軍は、第二陣の騎兵を投入する機会を失した。ガルヴァーノ・ランチア指揮の第二陣がようやく渡河を終えたとき、目の前にドイツ人騎兵部隊を屠って勢いづいたフランス人騎兵部隊が殺到した。シャルル・ダンジューはさらに最後列に控えていた予備部隊にマンフレーディ軍の側面を攻撃させ、マンフレーディ軍は潰走した。マンフレーディは予備部隊に攻撃を命じたが、一部始終を見て恐怖を覚えた予備部隊は戦場から逃げ出し始めた。マンフレーディはわずかな護衛とともに戦場に孤立した。覚悟を決めたマンフレーディは戦闘のただ中へと突入し、混戦の中で戦死した。夕方頃にはシャルル・ダンジューの勝利は確実なものとなっていた。
その後への影響

戦いの結果、ホーエンシュタウフェン家によるシチリア支配は崩壊した。マンフレーディの子供たちはこのあとすぐ捕らえられ、財産はシャルル・ダンジューに奪われた上、一生を牢獄で過ごすことになった。教皇はイタリアにおける宿敵をようやく打倒し、教皇権に安泰な時代が訪れたと感じたが、それはまもなく大きな過ちであったことに気がつくことになる。シャルル・ダンジューはマンフレーディと比べても劣らぬほど野心的であり、決して教皇権に従順な君主ではなかった。戦いに勝利したあと、ベネヴェントに滞在している間、シャルル・ダンジューはこの都市がマンフレーディでなく教皇庁に忠誠を誓っていたにもかかわらず、兵士たちに略奪させるに任せた。シャルル・ダンジューはたちまちのうちにシチリア王国全域での支配を確立し、ホーエンシュタウフェン家のコンラーディンによって、1268年にシチリア王国奪還の遠征軍が組織されたときには、これをタリアコッツォの戦い(英語版)で打ち破ることが出来た。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ a b c d e データは英語版に従った。
^ 教皇インノケンティウス4世とマンフレーディは条約を交わし、
コンラーディンのシチリア王位についての権利は成年に達したときに考慮されるべきこと

それまでの間シチリア王国は教皇庁によって所有されるべきこと
を約束していた。
^ 教皇庁はイングランドヘンリー3世の弟コーンウォール伯リチャードや王子エドマンド(後のランカスター伯爵)を候補としており、実際に交渉している。
^ シャルル・ダンジューは
かつてのノルマン人のシチリア王が持っていた、支配地における教皇代理としての地位を放棄し、

聖職者の任命権と宗教裁判の権利を保持できない。

聖職者に課税できず、空位の司教区での徴税権も認められない。

神聖ローマ皇帝の位を要求できない。

教皇庁に対し、10000オンスの年貢を納める。

教皇の要求があれば、騎士3000名と船舶を供出する。
などの極めて不利な内容を認めた。しかし、1264年にマンフレーディが中部イタリアで支配を拡大し、教皇権が危機に陥ると、早くも協定の見直しを要求した。
^ カンパーニア地方におけるマンフレーディの重要な盟友であったヴィーコ家のピエトロやギベリンであったローマ貴族ピエトロ・ロマーニなど。

出典
参考文献

スティーブン・ランシマン著、榊原勝・藤澤房俊訳『シチリアの晩鐘 十三世紀後半の地中海世界の歴史』太陽出版、2002年8月29日、.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 4884692829

成瀬治ほか編『世界歴史大系 ドイツ史』1、山川出版社、1997年

関連項目

ベネヴェントゥムの戦い (紀元前214年)

ベネヴェントゥムの戦い (紀元前212年)

典拠管理データベース: 国立図書館

ドイツ

イスラエル

アメリカ


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