ベネディクト16世
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2013年2月11日に開催された枢機卿会議において、約2週間後の2月28日20時(中央ヨーロッパ時間)をもって自らの意思で辞任(退位)することを表明した[38][39][40][41][42]。教皇は「何度にもわたって神に対し良心に照らして考えた結果、高齢に達している我が身が教皇としての職務を達成することができないという確信を持った」とし、「素早い変化に見舞われ、信仰にとってとても大切な問題に揺れる今日の世界では、ローマ教皇には心身ともに活力が必要であるが、私にとってそうした活力がここ数か月弱ってきており、私に与えられた職務を遂行することができなくなった」とラテン語で述べた[43][44]

辞任の表明はバチカン関係者も予想していなかったとされている。枢機卿会議の取材に際してラテン語を解する記者がいたイタリアのANSA通信がスクープとしてまず報道した[45]。インターネットのSNS上でも"pope"(ローマ教皇の意)の語がトレンドのランキングで急上昇した。のちの報道では辞任の予兆が存在したとの指摘もされている。教皇が2009年ラクイラ地震の被災地を訪問した際に、ラクイラ市内のサンタ・マリア・ディ・コレマッジオ聖堂にある、教皇辞任の規定を初めて教会法に取り入れてその最初の適用者ともなった中世のケレスティヌス5世の墓を訪問した。その際に自らが教皇就任以来使用してきたパリウムと呼ばれる法衣を墓にかぶせて奉献した。これは生前に自らの意思で辞任した(当時)唯一の教皇であるケレスティヌス5世を意識してとった行動であると推測する者もいる。辞任の表明は枢機卿会議の席上で「自身の力不足を理由に辞任する」という内容の文章をラテン語で朗読することで行われたが、これは719年前にケレスティヌス5世が辞任した際と同じである。

ベネディクト16世は辞任成立まで教皇としての聖務を継続した。2月14日には一般の拝謁をうけ信徒の「愛情と祈りに感謝の意」を表明している。

2013年2月28日の夕方にバチカン宮殿からカステル・ガンドルフォに移動し、城のバルコニーから集まった信徒に対し「私はもはや教皇ではなくなる。この世における巡礼の最後をたどり始めた一人の巡礼者だ」などと語り、現役最後の日を締めくくった[46]。その後20時(中央ヨーロッパ時間)に辞任が成立し、使徒座空位となった[47]。辞任成立の時刻をもってカメルレンゴ(教皇代理)を務めるタルチジオ・ベルトーネの指示で教皇の居室が封印され[48]、古くからの伝統と新たに定められた規定に基づき、使徒座空位期間に入った。1996年に第264代教皇ヨハネ・パウロ2世が発令した「使徒憲章」(ウニヴェルシ・ドミニチ・グレジス = 主の全ての群れの牧者)では、教皇のいない使徒座空位期間中は枢機卿団によって教会統治がなされるが、通常、教皇の決裁を要する事項は代理できないことから、これらは新教皇着座後に持ち越されている(ただし、通常かつ延期できない事項はこの限りではない。実際、使徒座空位期間中の3月5日にベネズエラ大統領ウゴ・チャベス亡くなり、通常は教皇名で発せられる弔電が枢機卿団名で出された)。通常、教皇帰天に伴う使徒座空位発生の場合は4-6日後に実施される葬儀の後に9日間の服喪期間が発生するが、ベネディクト16世の辞任は存命のまま行われているので服喪期間は発生していない[49]

ローマ教皇が自ら辞任を申し出るのは歴史上極めて異例であり、教会大分裂の解消のために1415年に辞任したグレゴリウス12世以来598年ぶりのことである。グレゴリウス12世の辞任は本人の同意が存在したとされているものの「教皇鼎立の解消」という政治的な事情が背景にある事実上の廃位であり、自身の意思で辞任するのは1294年ケレスティヌス5世の辞任以来719年ぶり、史上2人目となる[50][51][52]

教皇の辞任は教会法に規定があるものの、先例が数百年以上前になるために辞任後の教皇の称号や権限などの処遇は教会法で明確に規定されていなかった。このため退職した司教が「名誉司教」と呼ばれることにならい「名誉教皇 (Pope emeritus)」という称号が新設された。また「名誉教皇」も「教皇名」と「聖下」の尊称で呼ばれる。「名誉教皇聖下」と呼ばれた人物はこれまでになく、ベネディクト16世が最初の例となる。また服装も教皇と同様に純白のスータンカロッタと呼ばれる帽子を着用する。しかしケープと飾り紐と「教皇の赤い靴」の着用はない。前例であるケレスティヌス5世は退任後すぐに幽閉され、10か月後に死亡している。

辞任後のベネディクト16世はバチカン内にあるマーテル・エクレジエ修道院に居住することとなった[53] が、2013年2月時点では改装中であったため辞任までには間に合わず、暫定的にガンドルフォ城に滞在することとなった。辞任時点でバチカンから離れていたことで、結果的にコンクラーヴェから前教皇を隔離する意味も持つこととなった。

辞任した教皇はコンクラーヴェには参加しない。そもそもコンクラーヴェの参加資格は「使徒座空位発生日(今回は2013年2月28日)時点で80歳未満の枢機卿」であるため、ベネディクト16世はこの条件を満たしていない。辞任と同時に「使徒座空位」が宣言され、教会は枢機卿団の管理に入った。この間辞任した教皇はいかなる言動も取らない。カメルレンゴは2007年にベネディクト16世が任命したタルチジオ・ベルトーネ枢機卿が務めた。教皇が死去していないため、服喪のための9日間の祈りは行わず、3月4日から8日にかけて枢機卿会議が行われ、3月12日からコンクラーヴェが開始された。通常教皇選挙は使徒座空位発生日から15-20日目の間に開始されるが、ベネディクト16世が要請を受ける形で辞任直前に規定を改め、有権者が全員揃えば開始の前倒しを可能とし、実際に3日の前倒しが行われて12日からの開幕となった。コンクラーヴェは、使徒座空位発生時の2013年3月1日時点で80歳未満で同日までにローマに集合した枢機卿によって行われた。参加条件を満たした115名の枢機卿(ヨーロッパ62名、ラテンアメリカ19名、北米14名、アフリカ11名、アジア11名、オセアニア1名)により、3月13日アルゼンチン出身のフランシスコが後継者に選ばれ、同日就任した。
帰天と葬儀サンピエトロ大聖堂バシリカに正装安置されたベネディクト16世の遺体。マウロ・ガンベッティ主席司祭(英語版)が聖水を遺体にふりかけている。詳細は「en:Death and funeral of Pope Benedict XVI」を参照
帰天

中央ヨーロッパ時間2022年12月31日9時34分にバチカンにある修道院において帰天[54][55][56]崩御[57])。寶算95。
葬儀

遺体は2023年1月2日にサン・ピエトロ大聖堂に安置され[58]、葬儀は1月5日にサン・ピエトロ広場で執り行われ、遺体はサン・ピエトロ大聖堂の地下墓地に埋葬された[52][59]
批判
性的虐待事件への対応「カトリック教会の性的虐待事件」も参照

2009年になってアイルランドドイツ、アメリカ合衆国におけるカトリック聖職者による児童性的虐待事件が報道されるようになった。このスキャンダルに関してカトリック教会およびベネディクト16世への批判が高まり教会への不信は戦後最悪ともされる状態にまで陥り、教皇の辞任を求めるデモも発生していた。

アイルランドにおける事例については2009年末にアイルランド政府が公表した報告書が騒動のきっかけとなった。この中では1930年から80年代にかけて、教会の運営する施設において数百人の聖職者が少なくとも2500人の少年少女に性的虐待を加えたと述べられており、さらに組織的な隠ぺいがあったと結論している。ベネディクト16世は事件のもみ消しを図ったショーン・ブレイディー枢機卿の処罰を行っていないことが批判された。

300人以上もの被害者が報告されているドイツにおける事件では、教皇が大司教であった1980年の南部ミュンヘン教区においても被害者が存在すること、教皇の実兄が指揮者を務めたレーゲンスブルク聖歌隊においても虐待があったこと、さらに性的虐待に関与した神父の教会施設受け入れを認めたと報道されている。


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